成城墨岡クリニックによるブログ形式の情報ページです。
2009年02月06日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-17-
『歩行者の祈りの唄』から『単独者の愛の唄』、『糺問者の惑いの唄』を経て、『死法』に至る山本太郎の詩集は、言葉の喪失という地点(あるいは地平)にむかって全速力で突き進んできた一人の愛すべき人間の履歴であった。
山本太郎の詩を包み込んでいる透明な悲哀感は、山本太郎自身の言葉に対する異和感、苦渋の想いの反転された姿なのではないかと私は思うことがある。山本太郎は、その詩の原点から既に自己の生き方を厳しく規定してしまっていたのかも知れない。だから、山本太郎の詩を、まぎれもなく状況的だと評するのはゆきすぎかも知れない。だが、私はそれにもかかわらず山本太郎という詩人を状況の内で解釈したい。何故なら、私にとってそうであったように状況の内で山本太郎の詩が読まれる以外に、山本太郎の詩を受け継いでいく“場所”は、ほとんど存在しないのだから。
『歩行者の祈りの唄』は確かに一九五四年という時代を背景にしてはじめて生まれ得た作品であった。
殖え 育み
集団の名で見事いきのびた 歩行類の勝利の唄だ
嘲笑も自慰も仰々しい祈りも
それらあらゆる詐術を知らぬ
巨きな笑い
おお そこまで帰るために
おれはあんまり遠くまで来すぎたのだろうか
おれはいま 祈りさえ利用しようとしているのだぞ
ああ 悲しみ小さければ怒れもしまい
ややも産めまい
せめてこの深夜
動きエオアン・トロープスのおさに
烏滸なるわらべ一匹
丸ごと捧げる こころをうたう
(「心強きみおやなるエオアン・トロープスのおさにうつしよの烏滸なるわらべ一匹丸ごと捧げる唄」)
こうした詩語は明らかに、社会規範(政治の問題としても)においても、精神的にも、また表現論としても、価値そのものの崩壊以前の営みのなかからのみ生まれ出る言葉である。敵は実にはっきりと姿をみせているかわりに、私達の持ち得る武器もまた強いと信じられていた父親型社会の末期の唄である。
同じ意味で、『死法』はまぎれもなく一九七一年の唄である。山本太郎は、戦後の退廃と疲労した世界、それでいて妙に人間らしい形を保持していた世界を、「深夜の合唱」の詩の中でみごとに定着した訳だが、一九七0年前後の状況は、詩人にこのようなことを許さなかったに相違ない。
(Ⅰ詩人論/山本太郎論つづく・・・)