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墨岡通信

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2009年01月29日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-16-

おれたちの言葉は
射程をもたぬ
きづいているか
みな心をめがけて落下しているのだ
魂などみじんに砕け
原形をとどめぬ
今朝も神という言葉が
冷えきった飲物のように
おれののどをおりていった。  (「行方不明の言葉」)

ひとたび肉体的な暴力に対峙をよぎなくされた者にとっては、日常の生活の場における観念的生活が一つの幻影にすぎないものとなるだろう、というのは誰が発した言葉だったろう。いま、私達はこの言葉とは遥かに遠いところにいるのだ。と、同時に言葉そのものにも暴力性などというその場限りの幻想を持ち込むことを拒絶しなければならない。これは、それだけ現在が苦しい季節であることの証左であるかも知れない。
詩は、暴力的詩語によって自立できない。詩は変容しなければならないだろう。それでは、詩とは一体何なのか。
こうした問いかけに対する一つの解答を、私は山本太郎の詩のなかに見出すことができる。
山本太郎の詩は、私達にどうしようもなくかかわってくる。その意味で、山本太郎の詩は状況そのものなのだ。私達の内部意識にむかって、おびただしく状況を打ち込む銃撃手なのである。山本太郎の詩には遂に完結するイメージは存在しない。無限の変容と、途切れることのない精神の緊張状態の連続であって、個々人の重い日常の場に鋭くつらなっていくものである。
この意味で、山本太郎の詩は、出会いの詩とも言えるかも知れない。山本太郎の詩の一語一語には山本太郎という詩人の変転する巨大な意識の渦が懸垂していて、これらの詩語を統括するものとして山本太郎を論じることは到底不可能である。だから、私達は山本太郎の詩に出会うことしかできはしないのだ。山本太郎という詩人の生き方に出会うことしかできはしないのだ。それが、山本太郎の詩を実に悲壮的にと成立させている理由でもあり、山本太郎の問いかけの深い基調をなしているのである。

灰の指 灰の指
指をたてれば
疲労の犬がとんでくる
明日は愛さぬ時間
(おれはもう
(おれの時間を
訓育するものは怒り
人生をこえるのは
 つねに立体であると
肝に銘じて承知しているが
まずもって言葉が
視界をさえぎる   (「テロリストの指」)
(Ⅰ詩人論/山本太郎論つづく・・・)

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