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2009年01月25日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-15-
「その認識は我々に、我々の時を愛させる。我々の時とは、知覚させる最も小さな物のように――シャボン玉のように、波のように――あるいは最も簡単な対話のように、世界の混沌と秩序のすべてをその中に分割されていないままに包含するものだ」(メルロ・ポンティ)
だがしかし、これから私達が経験していかなければならないのは、表現行為というものにとって、まったく未知な空間であると言えるだろうと思う。何のために書くか、誰のために書くかという根本的な問いそのものが、そこではまず粉々に粉砕されてしまっているだろう。しかも、流通機構の実質を反権力的にうちたてることという巨大な課題が一方には位置しているのである。
不幸にして、山本太郎は野たれ死ぬかも知れない。野たれ死ぬからといって状況はまるで変わらないかも知れない。そして、山本太郎のすさまじく硬直した感性だけが宙空に成仏できずにさまよいあるくのかも知れないのだ。しかし、結局一人の人間の表現とはまさにそのようなものなのではないのか。だからこそ、一人一人の表現行為は鋭く権力に対峙し得るはずなのだ。
山本太郎が自己の詩の根拠としているもの、山本太郎を詩の莫大なエネルギーの構築として突き進ませているものは、人間の感性に対する限りない愛なのだ。そして、こうして山本太郎の表現の持ちえたやさしさの根源だけは、現実に一つの時代の役割を果していくだろうと私は思うのだ。
「人間を苦しむ神、いや、俺を苦しむ神がどこかにいなければならない。俺はその神に、存在の悲しみを『問わ』なければならない。『問い』の仕事をはじめるべきだ。こんどはあわてず、ゆっくりと、神に届く言葉で」(「山本太郎・詩論序説」)
山本太郎の詩や散文の持つ、おびただしくもすぐれたアフォリズムは、時に私達の意識の最も表層をのみ、うちふるわせて通り過ぎてしまいがちである。山本太郎の詩をそうして読むにすぎないことは実に、詩人にとっても表現に接するものにとっても大きな悲しみである。山本太郎の言う「存在の悲しみ」というものの内容は、詩人の心的現象のウッ屈した表象にもとづいているはずであって、こうした奥底の詩人の生き方にまでたどっていかない限り決して正当には論じ得ないのだ。
(Ⅰ詩人論/山本太郎論つづく・・・)