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2021年12月21日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-191

私達はいま、何故存在の問題について固執しようとしているのか。
現代社会の、極端に認識的な論理の構造のなかに組み込まれてしまっている日常には、もはや真の意味での人間的深みは期待できないというただそれだけの理由で、存在の問題が提起されているのだろうか。

存在と認識の二元論的把握はデカルトの心身二元論以来の哲学の根本問題であった。この“存在”を「生への意志」と呼ぼうが「権力への意志」と呼ぼうが、「自我」と言いならわそうがその本質はかわらない。“存在”は、徹頭徹尾存在の論理学の範疇で“存在”とは何か、ということだけを問題とする。私にとって真の“存在”とは何か。私は何故ここに在るか。しかし、哲学の内で二元論は既に二元論以外の何ものでもなく、人間存在の中で、この二元論が突如として平衡状態を保つことの真の理解は誰からもなされなかった。存在は自我の内にあり、主観の内部のものであり、認識とは他者であること、客観的関係として条件付けられるものと規定してみてもこの人間存在の深い亀裂はうずめつくすことは出来はしなかった。そこでは、存在と認識とを合体させることこそが我々の文化の最後の問題となるだろうという予感ともつかない信念を、ひそかに語りついでいくことしか出来なかったのである。そのうちに、哲学は哲学内部の問題として分析哲学を育て行動科学へと近接していく過程の内で、思考の論理学の枠内にはめこむことのできない存在の問題を、判断中止という形で放棄してしまおうとする人びとさえも生み出していった。

古典的マルクス主義にしても、主観内部の疎外の問題を論じながら、遂に下部構造(→認識過程)は上部構造(→存在過程)を規定することしか言い得なかったのである。

 (X状況のなかの精神医学/何故、今、レインなのか? つづく…)

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