成城墨岡クリニックによるブログ形式の情報ページです。
2020年09月15日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-177
勝手口にまわされた私達は、しかしそこでずいぶん長い間立ったままで待たされねばならなかった。仕事場以外には台所をのぞくと一間しかないその住いは、娘一人をかかえた弟さん夫婦にとっても明らかに狭かった。
手をのばせばとどきそうな距離のところでいそがしそうに働いているその弟さんは、しかし私達を30分ほども無視し続けた。
明らかに、私達は歓迎されざる訪問者であった。
その間、N・Hさんは弟さんにしきりに声をかけ、そんなに仕事などやめにして私達と話をしてくれとたのむのだった。
そのうちに、買物に出かけていたらしい弟さんの奥さんがもどってきて、私達を形通りに応待した。奥さんの口も重かった。
やがて、弟さんも渋々と重い腰をあげて、私達のところにやってきた。
ケースワーカーの調書から。
弟宅着、3時15分頃。4時30分帰。病院着5時50分。
弟の仕事の関係でゴタゴタしているところへ着き、30分~40分近く待たされることになったが、弟嫁と共に精神衛生法の解除の話にものってもらえ、何とか変更については可能である。又、外出、外泊についても出来る限り考慮される見込有り。都営住宅、店舗併用住宅2DK?に居住し、昨年1月5日人身事故を起し3ヶ月入院后死亡、その后手形割引のサギにあい赤字の対策に今年度は頭をいためている、と。仕事はまずまずあるので、という。近く費目変更、面会に来院予定と。
(Ⅳ私的表現考/世界の病むこと つづく…)
2020年07月21日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-176
やがて、街は落着いた家並を見せはじめ、旧家が多くなり、下町らしい商店がたちならんだりする。
「この先の右手に映画館があるよ。」
N・Hさんはやや無表情に呟くように言った。私は半信半疑だった。15年前のN・Hさんの記憶と、この時世に15年も前から同じ場所にある場末の映画館の存在など私には信じられないことだったのだ。
だが、果してその場所に映画館はあったのだ。それは、どこにでもあるようなちっぽけな閑散とした劇場で、いまは所謂ポルノ映画の三本立上映館であった。
「この映画館にはよく行ったですね。この辺はよく仕事の配達で通ったしね。ずいぶん変ってしまったけれど。」
ポツリ、ポツリとN・Hさんは語るのだった。
K駅から歩いて15分程で、それでも私達はN・Hさんの弟さん夫婦が住む都営住宅に至ることができた。
15年前は、木造一個建の住宅だったというその都営住宅は、今ではどこにでもあるような高層住宅の団地に変っていた。
弟さんは、その一棟の一階店舗付住宅で紙箱製造を営んでいた。職業は15年前とは変らない。店舗の入口で自己紹介をする私達の背後にN・Hさんの姿を見つけて、弟さんは小さく叫んだ。「あ、兄貴だ!」
(Ⅳ私的表現考/世界の病むこと つづく…)
2020年07月02日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-175
昭50年6月6日の午後、私と病院のケースワーカーのWさんは、N・Hさんを伴って、N・Hさんの保護義務者であり得るべきたった一人の肉親の弟夫婦の家へむかった。東京の下町・江東区内のその住いは、N・Hさんが入院する前にしばらくの間、この弟と共に住んでいた場所である。事前に連絡した際に、弟さんから簡単な道順を教えてもらっていた。
三鷹の病院から、国電でK駅まで約50分。
N・Hさんにとっては15年間乗ることがなかった国電である。無論、料金など知る由もない。私とWさんは、あらかじめ一定の金額の費用を私達と同じようにN・Hさんの手許に持たせて、切符その他を勝手に買わせることを検討したのだが、長期間の入院のために金銭的な感覚が、私達のそれとは格段の差があるN・Hにとっては、このことは大変な負担であるらしかった。そのために、結局私達は訪問という目的を最優先に考えて、切符その他は私達が買い与えることにしたのだった。
国電に乗ると、N・Hさんは私達とは離れて、私達の前の席に見合う形で席をとった。
国電に乗っている約50分の間、私とWさんは私達がかかえ持っている精神病院での精神医療状況のさまざまな困難さを具体的に話しあったのだった。N・Hさんは終始うつむきかげんで、しかし決して卑屈ではなく周囲の乗客の乗り降りや窓外の風景に興味を示していた。古ぼけた衣類を身につけてはいたが、全体にこざっぱりとして、乗客達の誰もN・Hさんが精神衛生法による強制措置入院の患者であることに気付くはずもなかった。
K駅につき、私達は都内用の地図を片手に歩きはじめた。6月、夏の到来を思わせる暑い日だった。
しかし、私達の地図を片手の進行はこの下町の土地では案外とむずかしいものであった。N・Hさんにとっては、15年以上の日数を経て大きく変化をとげた街である。私達が方向を見失って地図をのぞきこんでいるとき、きまって真先に近くの商店などに道をたずねに行ったのはほかならぬN・Hさんであった。ここではN・Hさんは実に活き活きと行動し、その行動において私達をリードした。そこには朝・夕病室の暗い隅で意味不明の読経をあげながら何事かを祈っている固い顔のN・Hさんの姿は微塵もなかった。
(Ⅳ私的表現考/世界の病むこと つづく…)
2020年02月23日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-174
例えば、昭40年の精神衛生法の改正にともなって、措置入院患者の公費負担の比率を大幅に増大させ、日本中至るところで圧倒的な措置入院を作り出してきた精神医療行政と、その行政を相補することによって成りたってきた精神病院(そのうち80%は私立精神病院であるが)いまさら強制入院の解除とひきかえに経済的な理由づけを個々の患者や医師、その他のスタッフに押しつけようとしているのである。
15年以上にわたるN・Hさんの強制措置入院を正当づけてきたあらゆる理由と、理論、法的根拠に対して、私達はその一つ一つの誤りを徹底的に指摘できるはずだと考えている。そして、こうした批判的作業と共に、N・Hさんをめぐる社会の状況の中に、N・Hさんを伴って私達自身が撃って出ることが何よりも必要とされているように考えるのである。せめて、現在の私達がN・Hさんと共に在ることのためにはこんなことぐらいしか出来ないのだと言うしかない。
(Ⅳ私的表現考/世界の病むこと つづく…)
2020年01月11日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-173
ⅳ
私達が家庭訪問をしようとしていたN・Hさんは、昭35年に精神衛生法による措置入院から仮退院中に病状が再発し、措置による再入院となって以来、その措置入院の主旨のとおり外出も外泊も許されず、最近では月二回ほどの看護婦付添の買物と、月一回程度のグループでの院外食(ラーメンを食べに行く)等以外は病院の外へ出ることはなかった。
何故、このように長期間にわたる措置入院(精神衛生法による強制入院)が実際に存在するのか、という素朴な疑問に簡単に答えることは難しい。だが、私達がまず確認しなければならないことは、このように明らかな不当な長期間の入院を強制させてきたもろもろの要因こそ、過去から現在に至る精神医療が果してきた患者処遇の内実であったということである。
措置解除を困難にしている最大の要因は、いうところの経済的問題(家族の入院費負担の増加、あるいは福祉による生活保護の枠がないことなど)であるわけだが、この点を百歩ゆずって認めたとしても、それさえも現在までの精神医療の内実が、家族、社会と患者をめぐる状況に関してほとんど何も手を出さなかったことの当然の結末なのである。
(Ⅳ私的表現考/世界の病むこと つづく…)

