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墨岡通信

成城墨岡クリニック分院によるブログ形式の情報ページです。

2018年04月19日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-157

精神分裂症と人がいうとき、そこには既にこの疾患のあらゆる内実とは無関係な、おぞましい暗黒のプロフィールが浮遊していて、この疾患を病む人間を二重にも、三重にも疎外しているのだ。

同僚の精神科医・渡辺明子はかつて私的な通信文のなかで、激しい想いをこめて「あの人たち」と呼んだ。私も、いま「あの人たち」としか語れない。「あの人たち」は、永遠に私の内なる「あの人たち」という位置にあり、「あの人たち」の言葉と、表現で語りかけてくる。

精神分裂を病むことは、世界の病むということの第一のものであるとメダルト・ボスは語ったことがある。事実、統計的にはあらゆる文化的状況にかかわらず一〇〇人に一人の精神分裂を病む人間がいる。だから、精神分裂を病む人間の存在は、それ自体として一つの人間存在のあり様を示していると考えるのも、あながち的はずれだとは言い切れない。それは、いうまでもなく、分裂症の本態を大脳内の器質的疾患としてとらえるか否か、というような問題とは本質的に何のかかわりあいもない。こうした議論は、例えば精神分析のいくつかの学派が、その原因はともかくとして、分裂症の本質を、プロセス(進行性病変)としてとらえていることとはまさに表裏の意味で、精神分裂を病むことを人間的、現象学的にとらえようとするとき、まず多くの場合不毛なものである。

(W私的表現考/世界の病むこと つづく…)

2018年03月19日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-156

世界の病むこと



私は一人の精神科医として、精神障害者と診断づけられた(或は、私が診断した)人々の心的現象を、あくまでも全人間的視野から問題とすべきだと考えている。疾患をめぐる症候群も、構造論も、そして現在の精神医療と治療概念も、すべて一個人の人間的営為のなかでとらえかえさなければならない。「狂気」を「狂気」として私達の側に氾濫させるものではなく、「狂気」をバラバラに分解させ、主観的な状況の場で、人間学としてよみがえらせたうえで再構築していかねばならない。

私達は、既存の精神医学のあらゆる部分がどんなことを行ってきたか、うすうすと気付きはじめている。だから、私達は新しい方法論を構築しながら一歩一歩、私達の主観に誓って納得できることだけを実践していくしかない。既存の精神病理学、現象学によってカルテを書かないこと。疾患の分類と診断の概念に構造的、状況的色彩をどこまでも導入していくこと。精神医療という莫大な非人間的要素を含んだ体系の内実を明らかにしていくこと。

私達の作業は、学問的とはいえないかもしれない。だが、そうだとしたら学問とは何かという一語をもって、学問を私達の側にひきよせなければいけないと、考えるようになった。私達が精神衛生法や精神病院の系統的批判を考えていると、別の研究室では、向精神薬の再検討について研究し、クロールブロマジンの人体血中濃度について分析し、電気睡眠について実験的分析を行い、精神分裂症の予后についての文献学的考察を行い、境界例の精神分析的解釈を論じ……という現象のなかで、スッポリと抜け落ちてしまう何かについて、私達は気づきはじめている。

(W私的表現考/世界の病むこと つづく…)

2018年02月26日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-155

だが、エリクソンが主観を状況として把握する場所が既に精神分析をはじめとする諸概念によってガチガチに固められてしまっている限り、状況のなかにただようように存在している人間の、その内部意識などに触れるべくもなかったのである。エリクソンの自我の総合力とは無縁の生き方のなかに、その個人の存在様式をうずめてしまっている人間達の生き方や、唄はどこからものぼってこないのである。そして、いまやエリクソンの言う社会変動よりも、一層激しい人間的価値が切実に問われようとしている。この時、エリクソンはどう答えようとしているのだろうか。

私は、主観――客観の対立図式を中心に極めて現代的な思想について触れてきた。それはただ単に触れてきたにすぎない。それでは私自身のものとして、表現論をどのように考えているのか、今度はそれについて私の言葉で語らなければならないのである。

 “表現の現象学”の項を今回で打ち切るのもそのためでる。次回から、私は自分の言葉で語り、自分の症例について述べ、私自身の生き方を考えていくつもりである。私はその項目に、“世界の病むこと”という表題をつけようと思う。

(W私的表現考/表現の現象学 完)

2018年02月01日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-154

 それでは、視点を180度転換して、状況の側から意識へと接近することはどうなのか。
 こうした接近をテーマにある程度の論理を展開させたのがエリクソンである。
 私が、この表現論のなかで何度も述べたようにエリクソンの“アイデンティティ・クライシス”の問題Identity diffusion Syndrom“自我拡散症候群”の呈示はかなりみごとに状況と自我との要点を描き出していた。エリクソン自身も、既に主観と客観は社会変動そのものに目をむければ問題にならないものとして止揚されたと考えていた。
 「かつての精神分析療法の治療目標そのものが、エスの可動性 the mobility of the id 超自我の寛容力 the tolerance of the superego、自我の総合力 the synthesizing power of the ego の、同時的な増進と、定義さ れたことがあった。そしてわれわれは、この最後のところ、つまり自我の総合力に、各個人の子ども時代の環境を支配した歴史変動と関連した各個人の自我同一性を含むべきであるという提案をつけ加えたい。なぜならば、各個人の神経症の克服は、彼を今のような彼にした歴史的必然を受け入れるところから始まるのである。各個人が自己自身の自我同一性との同一化を選択することができる時、そしてまた与えられたものをなさねばならないことへの転換することができる時、人間は自由を体験するからである」
  (「自我の強さと社会病理学」)
 
(W私的表現考/表現の現象学 つづく・・・)

2018年01月18日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-153

広松渉は述べている。

 「われわれは、まだ、この「図式」(主観――客観という)に根強く捉えられており、今日、それに代えて認識を述定しうべき既成の概念装置を持合わせていない。現に、感覚や感情に至るまで本源的に社会的な形象であることはいちはやく指摘し、社会的諸関係の総体として、いわば具体的普遍としての人間が共同主観的に営む対象的活動、これに視坐をとって認識を論じた有名なテーゼの継承者たちですら――当の始祖は「主観――客観」という用語法を注意深く回避した形跡が認められるにもかかわらず――再びSubjekt-Objekt-Schemaに回帰してしまっている現実を思うにつけ、当の図式を超克することはいかにも困難である。」

 「だが……主観――客観図式がいまや桎梏となり、“逼塞情況”を現出しているとすれば、そしてこれを打開することなくしてはもはや一歩も前進できない事態に逢着しているとすれば、たとえ徒労に終わろうとも、それを止揚すべく模索の途につくことが、当為となる所以である」(同前)

 ことわっておくが、広松渉のいう“逼塞情況”というのは哲学の場での状況であり、私がかかわっている精神医学的、或は表現論のものとしてではない。だが、主観――客観の問題が哲学をも含めて、一つの壁につきあたっている状況は理解できるのではないか。広松渉が、この種の問題提起からはじめて展開する「共同主観論」は膨大なものであり簡単に要約することはできないが、それは主観を、個人的主観においてのみとらえる方法論の誤謬を指摘し、主観はもともと状況的、役割的、歴史的現象の総体として存在するものであることを立証し、この一点に於いて主観と客観は断絶なく延長するはずのものであったというのである。

 広松渉の作業は、分野は異なるがかつての吉本隆明の作業にも似たところがあり、その点でも興味がわくのだが、そのことは他の場所にゆずる。

 だが、私個人としては、「世界の共同主観的存在構造」はそれはあくまでも認識論のカテゴリーからの提出であること、また主観の問題を扱いながら、個別主観については検討を加え得る段階でないことなどから、まだまだ私達の有効な方法論としては完成されていないと言ってよい。

(W私的表現考/表現の現象学 つづく…)

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