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2016年06月05日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-135

「“狂気の復権”を叫びうるのは、そうすることのできる健康者にすぎないのだ。病院の中に隔離収容された患者たちは、いくら病院の外で“狂気の復権”が叫ばれようが、復権の恩恵には浴しない。狂人は決して復権してもらえない。復権を許さないものがあり、それはとりもなおさず、“復権”を叫ぶ日常生活者なのである。もはや“狂気”弄ぶのは患者ではなくなった。“狂気”はわれわれの持ち物になってしまった感さえする。“狂気”すらも、われわれは患者から奪いとってしまった、といえるのではないか。いかなる意味においても“狂気”を言葉にするとき、それは健康者のものになっている」(松本雅彦『精神科医療における治療の構造』)

私達が、表現の現象学という名前で呼ぼうとしている一つの精神の現象学は、だから常に全人間的なものでなければならない。意識の内部の問題、状況にかかわる地点で(存在と認識とが直列するところで)はじめて、私達の本当の表現は誕生するのだ。

人間的表現というまさしく曖昧そのもののような言葉でしか私がこのような現象を語れないのは、既にさまざまな名辞や形容語句が私達から悪しきものによって奪いとられているからであるけれども、単にそれだけではなく、この現象の置かれた場所が今までの主観と客観とか、内部と外部とか、上部構造と下部構造とか、幻想と現実とかの二元論的在り様よりもさらに一歩を進めたところに存在しなければならないことの一つの決意のあらわれでもあるのである。

(Ⅳ私的表現考/表現の現象学 つづく・・・)

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