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墨岡通信

成城墨岡クリニックによるブログ形式の情報ページです。

2021年06月28日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-185

<表現>は一つの条件の内で、ある階級性をつくりあげるものであってはならない、と私は思う。表現行為をめぐる人間関係とは、表現の主体と客体とによって支配的に切断されているものではあり得ない。ある場所での被害が、他の場所で確実に加害となっていく生きかたを<表現>として肯定することはできはしない。常に埋もれつづけてきた者たちの声を、<表現>を、私は永久に読みつづけたいのだ。


 分裂病と診断された多くの人々は新生への航海を行う事ができない。なぜなら、彼等は治療によって曲げられているからであり、又は動けなくされているからである。彼等は内的にも外的にも複雑な結び目(Knot)の中で深く動けないようにされている。――矛盾した逆説的な帰属と命令の結び目の中で――これらの人々は不幸で欺瞞的な家族のもつ文脈の中から、同様に不幸で同じくらい欺瞞的な精神病院の文脈の中に、何の実存的変化をもたらす事なく移される。彼等の家族も病院も様々な方法で、その自然のルートにのり出していく事をさまたげる。(レイン)


現在までの精神医学の存在を、例えば治療法という平面だけで切り開いてみても、生理学的に根拠づけられた薬物療法というものをのぞいては、あらゆる本質的な方法論が喪失してしまっているというのが現状であろう。しかも、薬物療法に対する精神病理学的、あるいは精神現象学からの意味付けは不思議にもなされていない。薬物療法もまた、分裂病の本態にせまるものではない。

そこでいかにも合理的な一つの根拠として残されていたかのように見えた、日本における“生活療法”も、あの烏山病院闘争はその幻想をみごとにはぎとってしまったばかりでなく、“生活療法”全体を治療論の上から根本的に停止させてしまったのである。

(Ⅴ状況のなかの精神医学/詩と反精神医学と つづく…)

2021年06月11日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-184

「分裂病を生みだす母親」という概念を持ちこんだのは、精神分析学者のサリバンだった。しかし、病いをいつまでも病いの側からしか解析することをしなかった精神分析学の本流よりも、分裂病の本質を、母親レベル、患者レベル、父親レベルとのあいだの、そしてさらには家族全体の不合理性の結実とみる二重拘束の理論はさらに一歩の前進であったことは、その後の多くの臨床が証明していたのである。

レインの精神医学は、さまざまな立場の精神科医達から反論を受けた。しかしそれらの一つ一つが、レインの表現力の絆となって露出していく過程は注目してよいことだと思う。レインは決して、挫折によって“Knots”を書きあげたのではない。

キングスレイ・ホールと同じような宿泊施設(精神病院とは呼ばれない)は、ロンドンに一九七〇年までに三ヶ所設立され、英国、米国から医師やケースワーカーたちが参加している。それら施設に滞在した者の数は男女あわせて三一三名といわれている。
レインの言う詩を<表現>として書こうとするとき、すなわち詩の由来を人間として意識しはじめるとき、それは、人間社会の権力の厚く垂直な壁を、非日常的に真横に切断する鋭い刃以外のなにものでもないことを私は信じたい。

<表現>をめぐる、あるいは<表現>を支える人間的条件というものの存在を私は思い描くのだ。

(Ⅴ状況のなかの精神医学/詩と反精神医学と つづく…)

2021年05月22日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-183

レインのいくつかの論考が、しだいに苦渋の色を深めながら、精神医学という狭い枠組を越えていく過程は必然的なものであったといってよい。いつからかレインは論理を展開し、仮説を提示することをやめてしまう。人間の内面に、内面にと下降あるいは上昇していったもののみが手にする<言語>そのものに突きあたっていくのだ。レインは既に指導者であることをやめる。理論家であることをやめる。思想家であることをやめる。

レインの<言語>はただ<表現>としかいいようのないものへと連なっていく。そしてその過程で生まれたのが、“Knots”という詩集である。(詩集といってよいか、むしろ表現集である。)


われわれは子どもにわれわれを愛するよう、われわれを尊敬し、われわれに従うよう教える義務がある。
もし子どもがそうしなかったら、罰しなければならない。罰しないなら、われわれの義務を怠っていることになる。
もし子どもがわれわれを愛し、尊敬し、われわれに従いつつ大きくなったとするなら、われわれは、子どもをよく育てたことで祝福されるであろう。
もし子どもがわれわれを愛さず、尊敬せず、われわれに従わないで大きくなったとしたら、われわれが子どもを適当に育てたか、または育てなかったかのいずれかである。

われわれが子どもを適当に育てたとすれば、子どものなかに何かわるいところがあるに違いない。
われわれが子どもを適当に育てなかったとすれば、われわれのうちに何かわるいところがあるに違いない。


例えばこの詩を、レインの家族関係論のなかでの二重拘束理論そのものの置換であると解釈することは正当でない。

ここには、現に生存する人間対人間の非権力の原始への愛の唄とでもいうべき、やさしい基調が波うっているのであって、レインによる世界への子守唄ともいうべきものである。

(Ⅴ状況のなかの精神医学/詩と反精神医学と つづく…)

2021年04月02日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-182

「息苦しい壁」というものを、吉本隆明がどのように解釈しているのかはかなり明白だが、ここには疾患のアウトラインのみがあって個的な人間にかかわりあう<心的現象>は何ひとつ存在しない。吉本隆明は<心的現象>という名辞によって、確実に差別されてきた人々の<人間>をとらえていない。そもそも患者=人間の存在しない精神医学も、精神病理学も、精神病院も、精神衛生法もあり得はしないのだ。私たちは単なる認識論、とりわけ精神病理学のみから<心的現象>をとらえることの危険性を胆に銘じておかなければならない。総じて精神医学は、現在非常に困難な状態に直面している訳だが、そこで問い直されなければならないのは<人間>そのものであり、その人間の<表現行為>の深層である。

吉本隆明の論拠が多くの精神病理学書、精神分析に関する書物等々から成り立っているとき、それらを感情の乱れもみせずに引用している吉本隆明の位相を私は疑わざるを得ないのだ。私たちは、私達自身の問題提起なしにブロイラーやクレペリンにたちもどることは許されないのである。

一人の“精神障害者”が存在するだけでまきおこる家族関係の、隣人との、地域社会との、医療との、法律と権力との、そして人間生活おしなべてのすさまじい状況の嵐は一体何なのだろうか。私たちはこのことに触れなければ、<心的現象>について何も語れないのではないだろうか。

(Ⅴ状況のなかの精神医学/詩と反精神医学と つづく…)

2021年02月18日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-181

一九六五年のキングスレイ・ホールの宿泊施設は、医師も、看護婦もいない共同体としての精神病院であった。精神分裂病を精神医学と状況とによって規定されたものとして、とりわけ家族の文脈の内で形づくられたものと解釈した反精神医学は、理念としても、運動としても、まだ挫折してはいない。分裂病患者を正常人の文脈のなかでとらえる、また逆に正常人を分裂病者の文脈のなかでとらえるという対人関係論の仮説は、家族関係の文脈の中での二重拘束理論とともにはかり知れぬ影響力を持ち得ているのである。

「人は内側にいる」

レインは厳しく断言する。

かつて吉本隆明は『心的現象論序説』のなかで次のように述べた。


わたしたちは、純粋疎外の心的領域を想定することによって、分裂病概念の内側にややふみこむことができたはずである。現在の段階で、わたしたちが謙虚さを失わずにいいうることはたったこれだけであり、また幾重にも息苦しい壁が立ち塞がっているのを感じる。


『心的現象論序説』が私たちに与えた衝撃の強さは決して無視しえないものであった。だがそれにもかかわらず、一つの作業として私はこの労作に対して批判的である。吉本隆明の思想的営為のなかでこの『心的現象論序説』が持ち得る位置の決定的な深刻さを思うとき、私には決して軽々しく論ずることはできないが、私は吉本隆明が用いた方法論=認識論に対して強い不満を持っている。

(Ⅴ状況のなかの精神医学/詩と反精神医学と つづく…)

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