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墨岡通信

成城墨岡クリニック分院によるブログ形式の情報ページです。

2021年06月11日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-184

「分裂病を生みだす母親」という概念を持ちこんだのは、精神分析学者のサリバンだった。しかし、病いをいつまでも病いの側からしか解析することをしなかった精神分析学の本流よりも、分裂病の本質を、母親レベル、患者レベル、父親レベルとのあいだの、そしてさらには家族全体の不合理性の結実とみる二重拘束の理論はさらに一歩の前進であったことは、その後の多くの臨床が証明していたのである。

レインの精神医学は、さまざまな立場の精神科医達から反論を受けた。しかしそれらの一つ一つが、レインの表現力の絆となって露出していく過程は注目してよいことだと思う。レインは決して、挫折によって“Knots”を書きあげたのではない。

キングスレイ・ホールと同じような宿泊施設(精神病院とは呼ばれない)は、ロンドンに一九七〇年までに三ヶ所設立され、英国、米国から医師やケースワーカーたちが参加している。それら施設に滞在した者の数は男女あわせて三一三名といわれている。
レインの言う詩を<表現>として書こうとするとき、すなわち詩の由来を人間として意識しはじめるとき、それは、人間社会の権力の厚く垂直な壁を、非日常的に真横に切断する鋭い刃以外のなにものでもないことを私は信じたい。

<表現>をめぐる、あるいは<表現>を支える人間的条件というものの存在を私は思い描くのだ。

(Ⅴ状況のなかの精神医学/詩と反精神医学と つづく…)

2021年05月22日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-183

レインのいくつかの論考が、しだいに苦渋の色を深めながら、精神医学という狭い枠組を越えていく過程は必然的なものであったといってよい。いつからかレインは論理を展開し、仮説を提示することをやめてしまう。人間の内面に、内面にと下降あるいは上昇していったもののみが手にする<言語>そのものに突きあたっていくのだ。レインは既に指導者であることをやめる。理論家であることをやめる。思想家であることをやめる。

レインの<言語>はただ<表現>としかいいようのないものへと連なっていく。そしてその過程で生まれたのが、“Knots”という詩集である。(詩集といってよいか、むしろ表現集である。)


われわれは子どもにわれわれを愛するよう、われわれを尊敬し、われわれに従うよう教える義務がある。
もし子どもがそうしなかったら、罰しなければならない。罰しないなら、われわれの義務を怠っていることになる。
もし子どもがわれわれを愛し、尊敬し、われわれに従いつつ大きくなったとするなら、われわれは、子どもをよく育てたことで祝福されるであろう。
もし子どもがわれわれを愛さず、尊敬せず、われわれに従わないで大きくなったとしたら、われわれが子どもを適当に育てたか、または育てなかったかのいずれかである。

われわれが子どもを適当に育てたとすれば、子どものなかに何かわるいところがあるに違いない。
われわれが子どもを適当に育てなかったとすれば、われわれのうちに何かわるいところがあるに違いない。


例えばこの詩を、レインの家族関係論のなかでの二重拘束理論そのものの置換であると解釈することは正当でない。

ここには、現に生存する人間対人間の非権力の原始への愛の唄とでもいうべき、やさしい基調が波うっているのであって、レインによる世界への子守唄ともいうべきものである。

(Ⅴ状況のなかの精神医学/詩と反精神医学と つづく…)

2021年04月02日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-182

「息苦しい壁」というものを、吉本隆明がどのように解釈しているのかはかなり明白だが、ここには疾患のアウトラインのみがあって個的な人間にかかわりあう<心的現象>は何ひとつ存在しない。吉本隆明は<心的現象>という名辞によって、確実に差別されてきた人々の<人間>をとらえていない。そもそも患者=人間の存在しない精神医学も、精神病理学も、精神病院も、精神衛生法もあり得はしないのだ。私たちは単なる認識論、とりわけ精神病理学のみから<心的現象>をとらえることの危険性を胆に銘じておかなければならない。総じて精神医学は、現在非常に困難な状態に直面している訳だが、そこで問い直されなければならないのは<人間>そのものであり、その人間の<表現行為>の深層である。

吉本隆明の論拠が多くの精神病理学書、精神分析に関する書物等々から成り立っているとき、それらを感情の乱れもみせずに引用している吉本隆明の位相を私は疑わざるを得ないのだ。私たちは、私達自身の問題提起なしにブロイラーやクレペリンにたちもどることは許されないのである。

一人の“精神障害者”が存在するだけでまきおこる家族関係の、隣人との、地域社会との、医療との、法律と権力との、そして人間生活おしなべてのすさまじい状況の嵐は一体何なのだろうか。私たちはこのことに触れなければ、<心的現象>について何も語れないのではないだろうか。

(Ⅴ状況のなかの精神医学/詩と反精神医学と つづく…)

2021年02月18日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-181

一九六五年のキングスレイ・ホールの宿泊施設は、医師も、看護婦もいない共同体としての精神病院であった。精神分裂病を精神医学と状況とによって規定されたものとして、とりわけ家族の文脈の内で形づくられたものと解釈した反精神医学は、理念としても、運動としても、まだ挫折してはいない。分裂病患者を正常人の文脈のなかでとらえる、また逆に正常人を分裂病者の文脈のなかでとらえるという対人関係論の仮説は、家族関係の文脈の中での二重拘束理論とともにはかり知れぬ影響力を持ち得ているのである。

「人は内側にいる」

レインは厳しく断言する。

かつて吉本隆明は『心的現象論序説』のなかで次のように述べた。


わたしたちは、純粋疎外の心的領域を想定することによって、分裂病概念の内側にややふみこむことができたはずである。現在の段階で、わたしたちが謙虚さを失わずにいいうることはたったこれだけであり、また幾重にも息苦しい壁が立ち塞がっているのを感じる。


『心的現象論序説』が私たちに与えた衝撃の強さは決して無視しえないものであった。だがそれにもかかわらず、一つの作業として私はこの労作に対して批判的である。吉本隆明の思想的営為のなかでこの『心的現象論序説』が持ち得る位置の決定的な深刻さを思うとき、私には決して軽々しく論ずることはできないが、私は吉本隆明が用いた方法論=認識論に対して強い不満を持っている。

(Ⅴ状況のなかの精神医学/詩と反精神医学と つづく…)

2021年01月04日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-180

例えば、私はいま一人の人間としてR・D・レインのことを考えている。

正確にいえば、一九六九年に“The politics of The Family and Their Eyes”を出版してから、一九七〇年に“Knots”と題する詩集を書きあげるに至る、レインの内的あるいは状況的な経緯が私を強くひきつけてはなさない。

R・D・レインはいうまでもなく、D・G・クーパー等とともに反精神医学の旗手であった訳だが、現在まで、きわめて一面的な解説しか日本では一般化されていない。雑誌『現代思想』の“マルク-ゼ・ラカン・レイン特集号”でもレインの視点は完全に逆転されてしまっている。

反精神医学運動の支柱として『ひき裂かれた自己』、『狂気と家族』等の著作からはじまったレインの仮説は、日本の精神医学界をも確実にゆるがせたのだが、レインの生き方のまさに開かれたあり方として、まだその豊かな成果は、まさに「死んだ馬」ではあり得ないでいる。

『ひき裂かれた自己』はいまだ旧来の意味での精神現象学の範疇を越えず、レインそのものの感性に支えられた解釈学の試みにすぎなかったのだが、“The politics of experience and The bird of paradice”以後、レインの思考は私たちにおびただしい埋もれていく側の声の発掘を、とかりたてる心的な力学をよび覚したはずである。

レインが、「状況のなかの現象学的精神医学」と語るとき、その「状況」というのは単に精神医学という学問のなかの「状況」ではないように、「現象学」というものも、学問のなかの「現象学」ではあり得ない。後に、「政治学」という表題が多用されるように、それは人間の内部意識における権力関係の鳥瞰図であった。

内側から外側への
死から生への
後から前への
不死性から死の可能性への
自己から新しい自我への
宇宙的胎児状態から実在的再生への航海

と書き連ねたレインの息苦しいまでのやさしさが私をとらえてはなさない。

(Ⅴ状況のなかの精神医学/詩と反精神医学と つづく…)

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