成城墨岡クリニック分院によるブログ形式の情報ページです。
2021年10月14日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-188
何故、今、レインなのか?
昭和49年に雑誌『詩と思想』十月・十一月合併号に「詩と反精神医学と――あるR・D・レイン論のこころみ」を書いてから、私は数多くの個人的意見や示唆的なはげまし等をもらうことになった。限られた条件のなかで書きあげた論考なので、私にも心残りのする表現の箇所もあって、より形のととのったものとしてR・D・レイン論を書きたいという私の願いは日々強烈なものとなっていった。
また、ここ半年間のなかで我が国に於ける、レイン等の反精神医学へと一括され得る運動の位置が少なからず変化してきている。
レインの著作にしても、その代表的論考とも言うべき『経験の政治学』が訳され、相前後して私が先の文章の中でとりあげた『結ぼれ』という詩集(表現集)も訳が出版されたことによってレインを理解出来る人々が層を増しつつある現状である。
さらには、フロイト以後の精神分析的流れのなかでは、少くとも正統派ではあり得なかったエリクソンの自我拡散症候群の問題や、イギリスに於けるクライン、ガントリップ、またレインもその一員であったタヴィストック人間関係研究所の業績についてもかなり一般的に知られるようになってきた。こうしたなかで、クーパーの代表的著作であった「反精神医学」(Psychiatry and Anti-Psychiatry)が訳され出版されることになった。
しかし、こうした現象的な変化よりも、より本質的な意識の変化が確実に存在して、私達を常に問題提起の淵へと追いたてるのである。日本に於ける反精神医学の運動、そしてその母体となった精神医療研究の試行が、次第にその規範を変化させ、より人間的な存在の深みに沈み込もうとしているとき、「何故、いまレインなのか!」という声とは正反対に、再びレインを問いなおす作業がどのような意味を持つものであるか私達は深く考えるべきなのだ。新しいレイン論、新しい反精神医学論は、困難な場所からの要請でなければならないと私は思う。
(Ⅴ状況のなかの精神医学/何故、今、レインなのか? つづく…)
2021年09月30日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-188
レインが、詩的表現における領域で提供している問題は、精神と状況とのはてしない壮大なドラマともいうべきものであって、その内実を、私のものとしていくことは実に困難なものであるとしても、それらは、私自身の詩の問題と離れ難く結ばれているのである。
表現の流通機構を、と私が考えつづけているのは、非権力的なというだけの問題ではない。
その場所が、すなわち個人の生き方の場所、状況の場所となり、そのような場所へ自己の<表現>を提出できるかどうか、そしてその事自体が、ゆるぎなく私個人の生き方を深く規定していく流通の場のことを、私は夢みているのである。
キングスレイ・ホールを、共同体を、とあらゆる安易と誤謬を覚悟した上で、私は表現のなかに呼びこまないではいられない。
(Ⅴ状況のなかの精神医学/詩と反精神医学と 完)
2021年08月30日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-187
レインや、クーパー等の反精神医学について、アンリ・エイは鋭い批判をあびせたが、それは、反精神医学の本質を単なるアナキズムと受けとっての論旨であり、反精神医学の本質にせまるものではあり得なかった。しかし、アンリ・エイの言うように反精神医学は論理矛盾を自らかかえこんだものであり、その論理からすれば、反精神医学も反反精神医学も定立可能となり、とどまるところを知らないという点は、一面では真実であろう。というのも、レインの考えは、人間をどこまでも諸関係の平面としてとらえようとするものであり、いかようにも止揚できないありかたこそが人間精神の本質であるからである。レインが“航海”と名づけるのも、レインにとって垂直の上昇の存在が否定されているからにほかならない。
また、レインが詩的表現へと傾斜していく契機にもそれはなっているのである。まさにレインにとっての詩的表現こそが、レイン自身の航海の軌跡であり、レインを治療者として存在させている大きな要因であるのである。
解釈者と同じく、治療者も、自分にとっては奇妙な別な世界観のなかに身をおく能力をもっていなければならない。そのために治療者は、おのれ自身の潜在的精神病を手がかりにする。だからと言って、精神的健康を放棄するわけではないが。(レイン『引き裂かれた自己』)
私は想うのだ。レインの言うように詩を書くことが困難な時代だということは、すなわち表現論そのものが困難だということに相違ないことなのだ。そして、こうした時代の背景にはきまって多くの抑圧の構造が存在している。
だから、いつの日にか、何故私は詩を書くのかという問いかけを、単に自己の内的契機としてではなく、状況の自己への侵入と、その機制に対する抑圧の構造として把えなおす必要がありはしないだろうか。
(Ⅴ状況のなかの精神医学/詩と反精神医学と つづく…)
2021年08月03日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-186
私たちには、いかなる道があるのか、ということがここ数年、日本の精神医学界をおおう重く沈んだ空気の由来である。
精神医学を、単に精神病理学、精神現象学として把えることはむしろ簡単であろう。あらゆる<学問>が簡単であるように、それもまた簡単である。
精神医学を現在の状況の中で支えているものは、やはりまぎれもなく権力的なものとしてありつづけようとする学問のあり方そのものであり、そのことを根底から許している人間の存在構造の偏見であり、告発する側の圧倒的な無力さなのである。
私たちはまだ若い。だから私たちはたえざるひらきなおりのなかで、私たち自身のための<表現>の流通機構を確立したいのだ。そうでなければ、私達は永遠の“無頼”の中に身を沈めてしまわなければならなくなるだろう。“無頼”そのものは、それはそれで一つの完結した生き方だとしても、そのために、私自身の存在の、生き方に関する他者への<埋もれていく側への>加害的なありかたが、多くの真に抑圧されているものの声々を抹殺しているということを常に想起しなければならないのだ。
われわれが遂行する暴力、われわれがわれわれ自身に加える暴力、非難の応酬、和解、恍惚、愛の拷問は、現実の二人の個人がたがいに関係しているという、社会的に誘導された幻想にもとづいている。このような条件下では、幻覚と妄想、入り乱れた空想の氾濫、傷ついた心、一時しのぎのごまかし、復讐などの危険な状態こそが問題なのである。(レイン『経験の政治学』)
(Ⅴ状況のなかの精神医学/詩と反精神医学と つづく…)
2021年06月28日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-185
<表現>は一つの条件の内で、ある階級性をつくりあげるものであってはならない、と私は思う。表現行為をめぐる人間関係とは、表現の主体と客体とによって支配的に切断されているものではあり得ない。ある場所での被害が、他の場所で確実に加害となっていく生きかたを<表現>として肯定することはできはしない。常に埋もれつづけてきた者たちの声を、<表現>を、私は永久に読みつづけたいのだ。
分裂病と診断された多くの人々は新生への航海を行う事ができない。なぜなら、彼等は治療によって曲げられているからであり、又は動けなくされているからである。彼等は内的にも外的にも複雑な結び目(Knot)の中で深く動けないようにされている。――矛盾した逆説的な帰属と命令の結び目の中で――これらの人々は不幸で欺瞞的な家族のもつ文脈の中から、同様に不幸で同じくらい欺瞞的な精神病院の文脈の中に、何の実存的変化をもたらす事なく移される。彼等の家族も病院も様々な方法で、その自然のルートにのり出していく事をさまたげる。(レイン)
現在までの精神医学の存在を、例えば治療法という平面だけで切り開いてみても、生理学的に根拠づけられた薬物療法というものをのぞいては、あらゆる本質的な方法論が喪失してしまっているというのが現状であろう。しかも、薬物療法に対する精神病理学的、あるいは精神現象学からの意味付けは不思議にもなされていない。薬物療法もまた、分裂病の本態にせまるものではない。
そこでいかにも合理的な一つの根拠として残されていたかのように見えた、日本における“生活療法”も、あの烏山病院闘争はその幻想をみごとにはぎとってしまったばかりでなく、“生活療法”全体を治療論の上から根本的に停止させてしまったのである。
(Ⅴ状況のなかの精神医学/詩と反精神医学と つづく…)