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墨岡通信

成城墨岡クリニック分院によるブログ形式の情報ページです。

2020年12月01日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-179

Ⅴ 状況のなかの精神医学

 私が日常的にかかわっている精神医療は、現在、大きな変革期にある。その大きな変革の嵐を呼びおこしている精神医学における状況論の措定ということを主題として私はいくつかの論考を書いてきた。ここでは、そのなかでも表現の問題に関連してR・D・レインについて触れた文章を載せた。「状況のなかの精神医学」はこれらの問題の位置づけのために書き下したものである。そしてこれは同時に私自身の行為と思想の定立でもある。


詩と反精神医学と
――あるR・D・レイン論の試み


人間の表現行為をその源泉にまでさかのぼって考えるとき、一個人の状況との関わりあいのなかで主観的・客観的な抑圧の構造がどのような力動を持つものであるかを問うことは必要なことである。

いま、表現の流通機構の再構築という課題が私をとらえてはなさないでいるが、それはどのような意味においても抑圧の主体の側に至ることのできない一つの関係を、明らかに未完のままとり出すための見果てぬ夢である。

「支配というのは、挙示しうる一群の人びとを特定の(またはすべての)命令に服従させるチャンスのことである、と定義風にいっておく。それだから、『勢力』や『影響力』を他の人びとにおよぼすチャンスであれば、どのような種類のものでも支配であるということにはならない。こうした意味での支配(権威)は、個々のばあいには千差万別な服従の動機にもとづくことがありうる。つまり、この動機は、無反省なしきたりからはじまって、純粋に目的合理的な打算にまでわたっている。一定最小限の服従意欲、したがって、服従への(外的または内的な)利害関心こそは、あらゆる真正の支配関係のめやすなのである。」(M・ウェーバー「権力と支配」)

ウェーバーの言葉はあらゆる意味で古典的である。にもかかわらず、私たちがここで確認しなければならないことがある。現在、いかなる権力的な人間の諸関係にも自分は加担しないという、激しく、しかもつつましやかな魂のひらきなおりが必要である。

(Ⅴ状況のなかの精神医学/詩と反精神医学と つづく…)

2020年10月08日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-178

 弟さんも、奥さんも口が重かった。外泊などについても協力は約束してくれたが、この狭い住宅の一体どこにN・Hさんが泊れるだけのスペースがあるのだろうか。
 帰途、私達の足どりは決して軽いものではなかった。
 弟さんを責めることはできないことはよくわかっていた。この東京の空の下でN・Hさんが生活できる場所は、15年以上強制入院されていた私達の精神病院にしか現在のところあり得ないことも事実だろう。だが、このままでいたら、ますますN・Hさんの生きていくことが出来る場所はなくなってしまう。そして、精神病院は巨大な養老院と化してしまうのである。それが、日本の私立精神病院のまぎれもない明日の姿なのである。
 私達の頭上には高速道路が建ち、高層ビルの谷間をK駅まで区画整理された道路は続く、それはかつての日本の高度経済成長の下で、完全に忘れさられ、葬り去られたN・Hさんのこの15年間のまぎれもない象徴なのである。

 9月1日。N。Hさんは措置解除となり、生活保護による同意入院(保護義務者の同意による入院)に変更となる。
 弟さんの面会も月に一回位は可能となった。しかし、N・Hさんのかかえている状況はまだほとんど変化していないのだ。
 私が受け持っている慢性の開放病棟には、現在74名の患者がいる。衛生法の措置入院はまだ25名もいるのだし、ほとんどの患者が、10年以上も入院させられている人達なのだ。
 一体、私が精神科の医師としてこの人達にしてやられること、そして医療行為とは何なのだろうか。


(Ⅳ私的表現考/世界の病むこと 完)

2020年09月15日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-177

 勝手口にまわされた私達は、しかしそこでずいぶん長い間立ったままで待たされねばならなかった。仕事場以外には台所をのぞくと一間しかないその住いは、娘一人をかかえた弟さん夫婦にとっても明らかに狭かった。
 手をのばせばとどきそうな距離のところでいそがしそうに働いているその弟さんは、しかし私達を30分ほども無視し続けた。
 明らかに、私達は歓迎されざる訪問者であった。
 その間、N・Hさんは弟さんにしきりに声をかけ、そんなに仕事などやめにして私達と話をしてくれとたのむのだった。
 そのうちに、買物に出かけていたらしい弟さんの奥さんがもどってきて、私達を形通りに応待した。奥さんの口も重かった。
 やがて、弟さんも渋々と重い腰をあげて、私達のところにやってきた。


 ケースワーカーの調書から。
 弟宅着、3時15分頃。4時30分帰。病院着5時50分。
 弟の仕事の関係でゴタゴタしているところへ着き、30分~40分近く待たされることになったが、弟嫁と共に精神衛生法の解除の話にものってもらえ、何とか変更については可能である。又、外出、外泊についても出来る限り考慮される見込有り。都営住宅、店舗併用住宅2DK?に居住し、昨年1月5日人身事故を起し3ヶ月入院后死亡、その后手形割引のサギにあい赤字の対策に今年度は頭をいためている、と。仕事はまずまずあるので、という。近く費目変更、面会に来院予定と。

 (Ⅳ私的表現考/世界の病むこと つづく…)

2020年07月21日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-176

 やがて、街は落着いた家並を見せはじめ、旧家が多くなり、下町らしい商店がたちならんだりする。
「この先の右手に映画館があるよ。」
 N・Hさんはやや無表情に呟くように言った。私は半信半疑だった。15年前のN・Hさんの記憶と、この時世に15年も前から同じ場所にある場末の映画館の存在など私には信じられないことだったのだ。
 だが、果してその場所に映画館はあったのだ。それは、どこにでもあるようなちっぽけな閑散とした劇場で、いまは所謂ポルノ映画の三本立上映館であった。
 「この映画館にはよく行ったですね。この辺はよく仕事の配達で通ったしね。ずいぶん変ってしまったけれど。」
 ポツリ、ポツリとN・Hさんは語るのだった。
 K駅から歩いて15分程で、それでも私達はN・Hさんの弟さん夫婦が住む都営住宅に至ることができた。
 15年前は、木造一個建の住宅だったというその都営住宅は、今ではどこにでもあるような高層住宅の団地に変っていた。
 弟さんは、その一棟の一階店舗付住宅で紙箱製造を営んでいた。職業は15年前とは変らない。店舗の入口で自己紹介をする私達の背後にN・Hさんの姿を見つけて、弟さんは小さく叫んだ。「あ、兄貴だ!」

(Ⅳ私的表現考/世界の病むこと つづく…)

2020年07月02日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-175

 昭50年6月6日の午後、私と病院のケースワーカーのWさんは、N・Hさんを伴って、N・Hさんの保護義務者であり得るべきたった一人の肉親の弟夫婦の家へむかった。東京の下町・江東区内のその住いは、N・Hさんが入院する前にしばらくの間、この弟と共に住んでいた場所である。事前に連絡した際に、弟さんから簡単な道順を教えてもらっていた。
 三鷹の病院から、国電でK駅まで約50分。
 N・Hさんにとっては15年間乗ることがなかった国電である。無論、料金など知る由もない。私とWさんは、あらかじめ一定の金額の費用を私達と同じようにN・Hさんの手許に持たせて、切符その他を勝手に買わせることを検討したのだが、長期間の入院のために金銭的な感覚が、私達のそれとは格段の差があるN・Hにとっては、このことは大変な負担であるらしかった。そのために、結局私達は訪問という目的を最優先に考えて、切符その他は私達が買い与えることにしたのだった。

 国電に乗ると、N・Hさんは私達とは離れて、私達の前の席に見合う形で席をとった。
 国電に乗っている約50分の間、私とWさんは私達がかかえ持っている精神病院での精神医療状況のさまざまな困難さを具体的に話しあったのだった。N・Hさんは終始うつむきかげんで、しかし決して卑屈ではなく周囲の乗客の乗り降りや窓外の風景に興味を示していた。古ぼけた衣類を身につけてはいたが、全体にこざっぱりとして、乗客達の誰もN・Hさんが精神衛生法による強制措置入院の患者であることに気付くはずもなかった。
 K駅につき、私達は都内用の地図を片手に歩きはじめた。6月、夏の到来を思わせる暑い日だった。
 しかし、私達の地図を片手の進行はこの下町の土地では案外とむずかしいものであった。N・Hさんにとっては、15年以上の日数を経て大きく変化をとげた街である。私達が方向を見失って地図をのぞきこんでいるとき、きまって真先に近くの商店などに道をたずねに行ったのはほかならぬN・Hさんであった。ここではN・Hさんは実に活き活きと行動し、その行動において私達をリードした。そこには朝・夕病室の暗い隅で意味不明の読経をあげながら何事かを祈っている固い顔のN・Hさんの姿は微塵もなかった。

(Ⅳ私的表現考/世界の病むこと つづく…)

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