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墨岡通信

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2022年10月31日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-198

現在、私達は激しいい内部の声にせきたてられるようにして、私達自身のものとしての表現論を求めている。外部における状況的疎外の構造が、内部の疎外を屹立させる。疎外は現象として存在するものではあり得ない。

あらゆる権力構造を拒否し、かたくなに人間的生き方に傾斜する表現が、私的に言えば「存在の最も原初的な姿であるやさしさ」に裏付けられる日のために私達は新しい表現論を求めているのである。一つの表現論が、全体として、一つの人間論となり、一つの状況論となり、私達の日々の生活の中で内化される真の唄となる日のことを私達は夢みている。断じて夢ではない夢を。

レイン等による反精神病院=キングスレイ・ホール、クーパー等による反精神病棟=ヴィラ・21、そして今日全世界に存在しはじめた多くの共同体の実践が、私達に厳しい問いかけを行ってくる。私達は休んでいることは許されない。だが、私達は<運動>とか、<闘争>を語っているのではない。私達が語るのは常に<人間>についてでなければならないはずなのだ。

レイン自身が、自己の表現論を内化していく過程で、切ないほどの想念と願いをこめて、表現論のなかの二重拘束を打ち破ろうとする作業が、やはり『結ぼれ』という詩集(表現集)の持つ使命であった。


人は内側にいる
それから これまでその内側にいたものの外側へ出る
人はからっぽな感じがする
なぜなら自分自身の内側にはなにもないからだ
自分がいまその外側にいるものの
内側に入り込もうと、ひとたび試みるやいなや
人はたちまち自分自身の内側に
――人がかつてその内側にいたところの
外側のむこうにあるあの内側に――
入り込もうと試みるのだ
食べようとして、また食べられようとして
外側を内側に持とうとして、そして
外側の内側にいようとして

(Ⅴ状況のなかの精神医学/何故、今、レインなのか? つづく…)

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