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2013年01月06日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-90-

私は何故詩を書くのだろうか。あなたは何故詩を書くのか。詩の完成とは何なのだろうか。こうした問いかけに答えられる者はいない。ただ私達に言えることは、詩を多くの権威とか既成の詩の流通過程とからはっきりと屹立させることである。私達はどのような権力的な社会・経済関係、人間関係にも関与したくない。こうした私達の生きざまを内側から支える豊かな根源、開示の可能性こそが<詩>の中核に位置するものだと私は考えるのだ。

家族関係、職場、大学、その他社会、経済的な人間関係の単位の至るところで、詩人は自己の<詩人であること>の根拠に従って生きるべきである。それがたとえ、永遠にむかってなげかける幻想の共同性だとしても、その永遠をこそ自己の日常へと吸引同化させていくものが表現行為であり創造力であると考えたいのである。

現代では、個人の<存在>の確信、すなわち内的な経験とはイデオロギーをのりこえるための準備された自我の契機である。

〔参考文献〕
 (1)J.P.サルトル『シチュアシオン Ⅰ』(人文書院)
 (2)R.D.Laing:The Politics of Experience and The Bird of Paradise,Penguin Books(1967)
 (3)E.Kris:Psychoanalytic Exploration in Art,(1952)  
(4)S.Frend:Vorleshngen zur Eiofuhvung in die Psychoanalyse(1617)
 (5)B.M.Francescato & S. Jones:Radnees:Radical Psychiatry in Italy:“Love is not enough”、The Radical Therapist、vol2.No.5(1972)
 (6)H.Kesselman:Psychoanalysis and Imperialism
 (7)福岡安則「内化の企て――新しい集団性の創出」(東京大学社会学科 大学院論文 1975)
 (8)T.Szasz:The Myth of Mental Illness、American Psychologist 15 (1960)
(Ⅱ表現論/私的詩人考終わり)

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