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2012年12月21日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-89-
(ⅲ)自己再帰的詩人論
私達にとって、状況の現状分析や歴史的展望は可能な限り必要なことである。だが、それにもかかわらず、私達は詩的状況や詩の現代的意味といった論調が詩の流通過程のなかに登場することに反対である。私達にとって「六〇年代」の詩も「七〇年代」の詩も共に、それほど意味がある訳ではない。私達が状況の問題を手にするとき、それは常に状況総体の問題としてあらわれ、単に個別の内に独立して存在するものであり得ないのである。私達は、まず自己の内的な経験のなかに深くかかわることから詩をはじめなければならない。それが今日的意味で、最も状況的な人間の姿であるような気がしてならない。詩人は、個々の内なる沈黙の規範のなかにその豊かな感受性の根をおろさなければならない。
ここで、私は単に状況的悲観論を述べているのはない。ただ、現代において詩人であることのためには持続した自己批判的自我をもち続けなければならないということを確認したいのだ。詩人であることは<闘争>であり、何よりも<運動>である。自己のたえまない<運動>である。そしてその自我の構造は持続した自己再帰的(reflexive)な価値意識であるべきである。
このとき詩人であることのためのアイデンティティなど何の役にもたたない。むしろ、詩人は諸制度が要求するあらゆるアイデンティティから自由な存在でなければならない。この意味における自由の虚無、寂しさ、愛とやさしさへの根源的希求等によって、詩人は、表現への契機を語ることができるということである。
「変革とは、個人の変革のみならず、個人をとりまく外的情況の変革をめざすものである。」(Jerome Agel)というテーゼを深く深く確認しながら、なおかつ内的な経験に関与することによって、世界の変革に参与していくことが詩人にかせられた今日的課題であるように思われる。
(Ⅱ表現論/私的詩人考つづく…)