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墨岡通信

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2008年07月18日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ -8-

ところで、埴谷雄高は書いたことがある。
「目の前に現存しないのに必ずそこに動いている巨大なもの、それは権力である。闇のなかから鉤がでてきて一人の男をつくりあげ消え去ったとすれば、それは権力が働いていたのである。そこには奥の見えぬ闇の恐怖がある。けれども、その遠い闇の奥には自己満足を感じているひとりの愚昧な政治家が坐っていて、そこには何者も天秤を動かし得ない不思議なバランスがとれているのである。」(埴谷雄高『幻視のなかの政治』)
政治権力が「奥の見えぬ闇の恐怖」だとするなら、意識の内部もやはり「奥の見えぬ闇の恐怖」に相違なく、対権力に関してそれは現実の武器にもなるはずである。石原吉郎の表現が私達にとって支えとなるのはこのことを豊かに示唆しているからに他ならない。
闘い、と呼びならわされる構造は潮のように引いてゆき、瓦解しつくしたのだろうか。見果てぬ夢として、対峙するバランスもなくすっぽりと、すべての証言を含んだまま埋葬されてしまったのだろうか。否、と私は考える。私達は歩を進めている、と思う。石原吉郎の表現と、それを受けとめる私達の位相の内に、それは物語られているのではないか。石原吉郎が語るのは意識の内なる<風>のことであり<海>のことである。そして、その吹きすさぶ<風>を私達の遠い道程に組み入れていく作業こそ私達のものであるべきなのだ。
「十二月一日夜、私は舞鶴へ入港した。そこまでが私にとって<過去>だったのだと、その後なんども私は思いかえした。戦争が終ったのだ。その事実を象徴するように、上陸二日目、収容所の一偶で復員式が行われた。昭和二十八年十二月二日、おくれて私は軍務を解かれた。」(「望郷と海」)(Ⅰ詩人論/『望郷と海』覚え書つづく・・・)

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