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墨岡通信

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2021年11月02日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-189

この小論のなかで、レインのかかえている問題のすべて、また反精神医学をめぐる解釈のすべてを書きつくすことは不可能である。私は敢えて、論理を分解したところからはじめようと思う。そのために、私の構想の中にあったレイン論について簡単に図式しておきたい。次に述べる構図は私が本年一月、「詩と反精神医学」という題名で行った講議のサブノートである。

(1)レインの紹介

(2)反精神医学の立場について
エスターソン・クーパー・サス

(3)レインの反精神医学の構造
① 存在論的 → 実存的色彩
② 家族関係論と二重拘束の理論
   家族の役割・ベイトソンの理論
③ 社会精神医学的・新左翼的
キングスレイホールの実践
④ レインにとっての詩


(Ⅴ状況のなかの精神医学/何故、今、レインなのか? つづく…)

2021年10月14日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-188

何故、今、レインなのか?

昭和49年に雑誌『詩と思想』十月・十一月合併号に「詩と反精神医学と――あるR・D・レイン論のこころみ」を書いてから、私は数多くの個人的意見や示唆的なはげまし等をもらうことになった。限られた条件のなかで書きあげた論考なので、私にも心残りのする表現の箇所もあって、より形のととのったものとしてR・D・レイン論を書きたいという私の願いは日々強烈なものとなっていった。
 
また、ここ半年間のなかで我が国に於ける、レイン等の反精神医学へと一括され得る運動の位置が少なからず変化してきている。

レインの著作にしても、その代表的論考とも言うべき『経験の政治学』が訳され、相前後して私が先の文章の中でとりあげた『結ぼれ』という詩集(表現集)も訳が出版されたことによってレインを理解出来る人々が層を増しつつある現状である。

さらには、フロイト以後の精神分析的流れのなかでは、少くとも正統派ではあり得なかったエリクソンの自我拡散症候群の問題や、イギリスに於けるクライン、ガントリップ、またレインもその一員であったタヴィストック人間関係研究所の業績についてもかなり一般的に知られるようになってきた。こうしたなかで、クーパーの代表的著作であった「反精神医学」(Psychiatry and Anti-Psychiatry)が訳され出版されることになった。

しかし、こうした現象的な変化よりも、より本質的な意識の変化が確実に存在して、私達を常に問題提起の淵へと追いたてるのである。日本に於ける反精神医学の運動、そしてその母体となった精神医療研究の試行が、次第にその規範を変化させ、より人間的な存在の深みに沈み込もうとしているとき、「何故、いまレインなのか!」という声とは正反対に、再びレインを問いなおす作業がどのような意味を持つものであるか私達は深く考えるべきなのだ。新しいレイン論、新しい反精神医学論は、困難な場所からの要請でなければならないと私は思う。

 (Ⅴ状況のなかの精神医学/何故、今、レインなのか? つづく…)

2021年09月30日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-188

レインが、詩的表現における領域で提供している問題は、精神と状況とのはてしない壮大なドラマともいうべきものであって、その内実を、私のものとしていくことは実に困難なものであるとしても、それらは、私自身の詩の問題と離れ難く結ばれているのである。

表現の流通機構を、と私が考えつづけているのは、非権力的なというだけの問題ではない。

その場所が、すなわち個人の生き方の場所、状況の場所となり、そのような場所へ自己の<表現>を提出できるかどうか、そしてその事自体が、ゆるぎなく私個人の生き方を深く規定していく流通の場のことを、私は夢みているのである。
キングスレイ・ホールを、共同体を、とあらゆる安易と誤謬を覚悟した上で、私は表現のなかに呼びこまないではいられない。


(Ⅴ状況のなかの精神医学/詩と反精神医学と 完)

2021年08月30日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-187

レインや、クーパー等の反精神医学について、アンリ・エイは鋭い批判をあびせたが、それは、反精神医学の本質を単なるアナキズムと受けとっての論旨であり、反精神医学の本質にせまるものではあり得なかった。しかし、アンリ・エイの言うように反精神医学は論理矛盾を自らかかえこんだものであり、その論理からすれば、反精神医学も反反精神医学も定立可能となり、とどまるところを知らないという点は、一面では真実であろう。というのも、レインの考えは、人間をどこまでも諸関係の平面としてとらえようとするものであり、いかようにも止揚できないありかたこそが人間精神の本質であるからである。レインが“航海”と名づけるのも、レインにとって垂直の上昇の存在が否定されているからにほかならない。

また、レインが詩的表現へと傾斜していく契機にもそれはなっているのである。まさにレインにとっての詩的表現こそが、レイン自身の航海の軌跡であり、レインを治療者として存在させている大きな要因であるのである。


解釈者と同じく、治療者も、自分にとっては奇妙な別な世界観のなかに身をおく能力をもっていなければならない。そのために治療者は、おのれ自身の潜在的精神病を手がかりにする。だからと言って、精神的健康を放棄するわけではないが。(レイン『引き裂かれた自己』)


私は想うのだ。レインの言うように詩を書くことが困難な時代だということは、すなわち表現論そのものが困難だということに相違ないことなのだ。そして、こうした時代の背景にはきまって多くの抑圧の構造が存在している。

だから、いつの日にか、何故私は詩を書くのかという問いかけを、単に自己の内的契機としてではなく、状況の自己への侵入と、その機制に対する抑圧の構造として把えなおす必要がありはしないだろうか。

(Ⅴ状況のなかの精神医学/詩と反精神医学と つづく…)

2021年08月03日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-186

私たちには、いかなる道があるのか、ということがここ数年、日本の精神医学界をおおう重く沈んだ空気の由来である。

精神医学を、単に精神病理学、精神現象学として把えることはむしろ簡単であろう。あらゆる<学問>が簡単であるように、それもまた簡単である。

精神医学を現在の状況の中で支えているものは、やはりまぎれもなく権力的なものとしてありつづけようとする学問のあり方そのものであり、そのことを根底から許している人間の存在構造の偏見であり、告発する側の圧倒的な無力さなのである。

私たちはまだ若い。だから私たちはたえざるひらきなおりのなかで、私たち自身のための<表現>の流通機構を確立したいのだ。そうでなければ、私達は永遠の“無頼”の中に身を沈めてしまわなければならなくなるだろう。“無頼”そのものは、それはそれで一つの完結した生き方だとしても、そのために、私自身の存在の、生き方に関する他者への<埋もれていく側への>加害的なありかたが、多くの真に抑圧されているものの声々を抹殺しているということを常に想起しなければならないのだ。


われわれが遂行する暴力、われわれがわれわれ自身に加える暴力、非難の応酬、和解、恍惚、愛の拷問は、現実の二人の個人がたがいに関係しているという、社会的に誘導された幻想にもとづいている。このような条件下では、幻覚と妄想、入り乱れた空想の氾濫、傷ついた心、一時しのぎのごまかし、復讐などの危険な状態こそが問題なのである。(レイン『経験の政治学』)


(Ⅴ状況のなかの精神医学/詩と反精神医学と つづく…)

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