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墨岡通信

成城墨岡クリニック分院によるブログ形式の情報ページです。

2022年11月29日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-199

私はいつも、レインの表現に接する時、二人の人間のことを考える。その一人は、松下昇のことであり、もう一人はフランツ・ファノンである。かつての、神戸大闘争の中での松下昇の表現のことを私はまだ忘れないでいる。フランツ・ファノンについての私的解釈は、折に触れて、雑誌『詩学』に連載中の「私的表現考」に書きつづり、またこれからも書き続けていくつもりである。

レインは語っている。

「詩とよばれるものは、おそらくコミュニケーション、発明、受胎、発見、生産、創造等の合成されたものでしょう。あらゆる意図や動機の競合を通して一つの奇跡が生じたのです。太陽の下に新しきものあり、というわけです。存在が非存在から湧出したのです。まるで泉が岩からわき出るように。」(『経験の政治学』)

これから、私達の行うべき作業は厳しい状況の壁に囲まれて、暗く展望がないもののようである。だが、私達は一生涯かけて作業をやり抜かなければならない。激しい愛情を持って、そのあとは、私達が生み、育てた、次の世代がその作業を引き継いでくれるだろう。

(Ⅴ状況のなかの精神医学/何故、今、レインなのか? 終)

2022年10月31日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-198

現在、私達は激しいい内部の声にせきたてられるようにして、私達自身のものとしての表現論を求めている。外部における状況的疎外の構造が、内部の疎外を屹立させる。疎外は現象として存在するものではあり得ない。

あらゆる権力構造を拒否し、かたくなに人間的生き方に傾斜する表現が、私的に言えば「存在の最も原初的な姿であるやさしさ」に裏付けられる日のために私達は新しい表現論を求めているのである。一つの表現論が、全体として、一つの人間論となり、一つの状況論となり、私達の日々の生活の中で内化される真の唄となる日のことを私達は夢みている。断じて夢ではない夢を。

レイン等による反精神病院=キングスレイ・ホール、クーパー等による反精神病棟=ヴィラ・21、そして今日全世界に存在しはじめた多くの共同体の実践が、私達に厳しい問いかけを行ってくる。私達は休んでいることは許されない。だが、私達は<運動>とか、<闘争>を語っているのではない。私達が語るのは常に<人間>についてでなければならないはずなのだ。

レイン自身が、自己の表現論を内化していく過程で、切ないほどの想念と願いをこめて、表現論のなかの二重拘束を打ち破ろうとする作業が、やはり『結ぼれ』という詩集(表現集)の持つ使命であった。


人は内側にいる
それから これまでその内側にいたものの外側へ出る
人はからっぽな感じがする
なぜなら自分自身の内側にはなにもないからだ
自分がいまその外側にいるものの
内側に入り込もうと、ひとたび試みるやいなや
人はたちまち自分自身の内側に
――人がかつてその内側にいたところの
外側のむこうにあるあの内側に――
入り込もうと試みるのだ
食べようとして、また食べられようとして
外側を内側に持とうとして、そして
外側の内側にいようとして

(Ⅴ状況のなかの精神医学/何故、今、レインなのか? つづく…)

2022年09月29日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-197

このような形でのレインの方法論は、コミュニケーションの問題、言語の問題、対人関係の問題等を経て、より根本的な表現の問題へと近付いていく。それは、人間存在の本来的在り様をめぐる表現論の地平である。そしてレインはこの表現論のなかで、確実に存在と認識の二元論をのり越えるための一つのいき方を獲得したと言えるのである。

レインに対する批判としてよく聞かれるものは、レインが分裂病として引きあいに出す症例は、分裂病ではなく分裂病様反応にすぎない、あるいは分裂病質者の反応にすぎないのではないかという議論は、もはやはじめから意味のないもなのである。


「言語において、かつ言語をとおして表現された、言語形成以前の沈黙は、言語によっては表現されえません。けれども言語が言語自らが言い表すことのできない事がらを伝達するために、言語の間隔、空白、言い間違い、縦横に組みあわされた構造、構文、音、意味などを用いる、ということは可能です。音の調子と音量を調節すれば、行間にこめられている意味の明言を避けるという、まさにそのことによって、その形態は正確に叙述されます。」(同前)

レインはさらに、この表現論の基本的意味について次のように、述べている。

「問題は何ものかを無の中に注ぎこむことではなくて、無から何ものかを創り出すことなのです。虚無からなのです。創造がそこから湧出してくるところの非事物つまり無は、最も純粋な場合には、空虚な時間といったものではありません。

非存在は、言語が表現できるぎりぎりの限界のところにあります。けれども、言語が言い表わすことのできないことを言語が言い表わせないのはなぜかという理由は、言語によって示すことができます。私は言い表わされえないことを言い表わすことはできませんが、しかし音があるから私たちは沈黙に耳を傾けることができるのです。」(同)

(Ⅴ状況のなかの精神医学/何故、今、レインなのか? つづく…)

2022年08月27日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-196

レインは、発達心理学、自我心理学とは異った立場から家族関係論を展開してきた。『狂気と家族』、『家族の政治学』等を通して家族相互関係のモデルと、家族全体の歪み、そのなかで形成される「分裂病」、家族全体の歪みの結実としての病者(Identified person)等々の問題を提示してきた。こうした一連の家族関係論の中から、レインが後に存在と認識の二元論を飛び越えてしまう方法論がはぐくまれるようになったのである。

その最初の展開はやはり、一九五六年にグレゴリイ・ベイトソンによって提示された二重拘束の理論の導入である。ベイトソンはニューギニアの文化人類学的研究のなかから二重拘束理論を発見したが、レインはまず、家族関係論へ、そしてさらに対象関係論へと精力的に押し進めていった。

例えば、二重拘束の最も簡単な例は親が子供に対してある行為をとろうとするとき、言葉によっては子供に対して許容的、肯定的であるにもかかわらず、顔つき、身振り、態度その他非言語的表現によっては拒否的、否定的な場面に子供が直面させられ、そのいずれの選択によってもジレンマに陥らざるを得ない時、その子供はその親から二重拘束を受けている。

「ベイトソンはこのような、解決不能の『如何ともしがたい』状況という範型をつくりだしたのです。これはとりわけて自己のアイデンティティ(同一性)にとって、つまり自己が自己であることにとって破壊的な性質のものであって、分裂病と診断される人の家族内コミュニケーションのパターンに関係があるとされました。」(『経験の政治学』)

「われわれは、一人の人間が分裂病と見なされるようになるときの社会的出来事をめぐる現実状況を研究したのですが、それらのケースにおいて、分裂病というレッテルを人びとに貼らせることになった彼らの経験と行動とは、例外なくその人間が行きうべからざる状況を生きるために発見した、とっておきの戦術であるように、われわれには思えるのです。その人間は自分の生活状況の中で自分が自分をまもりがたい位置にあると感じるようになっていきました。彼は動くことも動かないでいることも、ともに出来ない。」(同前)

(Ⅴ状況のなかの精神医学/何故、今、レインなのか? つづく…)

2022年07月29日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-195

存在の問題を主観内部の問題としてとらえるということはむしろ当然の行為ですらあるが、レインはこの地点を一歩踏み込んで、状況と自我とのかかわりあいのなかに存在の論理学を持ち込もうとする。内部的存在の深さ、内部的宇宙の巨大さ、人間存在のはかり知れない広がり、こういった解釈を人間関係論として押し拡げていくとき、当然のことながら私達は心的現象の内部そのものとしての“疾患”ににつきあたる。自我心理学も、精神病理学も、まずはじめに欠落症状としての“疾患”によって規定されている以上、宿命的なことである。だが、レインは他の人間学的精神現象学の先駆者達と同じように、“疾患”という概念も、従って“治療”という概念も持とうとしない。そこにはただ状況によって規定された存在の問題が露呈されているだけであり、人間存在の根底は恐ろしく深いのである。

「私が今ここで分裂病という用語を使うときは、身体的であるよりはむしろ心的と想像されるような、なんらかの状態を指して言っているのではなく、また肺炎といったような、一つの病気を考えて言っているのでもないのです。そうではなく、この用語は、或る社会的状況下にあって、或る人が他の人々の上に貼りつけるレッテルだと私は考えています。『分裂病』の『原因』がもし見つけ出されるとしたら、それは将来分裂病と診断されるはずの人、その人だけの検索からではなく、そういう精神医学的儀式がそこで行われるような社会的脈絡全体を検索することによってであります。」(前同)

存在と認識の二元論、自我と状況の二元論、内部と外部との二元論、これを一気に短絡させ人間存在を全体として(as a whole)把握する論理学こそレインの試行の目的であった。だが、レインはこの作業のために決して無意識とか、純粋経験とかの微細な現象を問題とする訳ではなかった。これらの、微分的方法、或いは“水平の弁証法”(橋本克己)による解釈学にたよらないで、レインが用いた方法論はいわば積分的方法である。

(Ⅴ状況のなかの精神医学/何故、今、レインなのか? つづく…)

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