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墨岡通信

成城墨岡クリニックによるブログ形式の情報ページです。

2013年06月21日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-97-

だが、このとき三木卓がこのような詩を書きえた状況とは何なのか。

三木卓は述べている。「何故か、言葉に頼るようにして生きている」

だとすれば、言葉を“表現”の縦軸にいともやすやすと乗せてしまうのが三木卓の詩であるように思えてならない。

 「晦冥とでもいったらいいような中に何時もいて、一行書きとめると、もうすこし見えるかもしれない、と思った」

この言葉の意味は、私にはよくわかる気がするのだ。しかし、私には三木卓が何故ことさらにイメージを浮きたたせ、イメージのみを拡散させていく詩法しか持ち得ないのかが理解できないでいる。それはすなわち、三木卓の詩が理解できないというのにも通じることかもしれない。

三木卓は、自分で述べているような「弱い人間」ではないはずである。「弱い人間」という言葉は、概念的に人間を把握する言葉ではない。もしそのような概念があるとすればそれは生き方そのものに由来するものなのである。個人の壮絶な生き方自身の中にあるべきものである。

私は三木卓の詩集を読みながら、表現の根拠として、私が考えつつある、遠い予感のことを同時に考えているのだ。

それは、三木卓が童話とか、小説とかに言語表現の可能性のいくつかを見出すという方位とはまったく異った地平でしか、私が言葉というものをとらえられないということにもよるだろう。
(Ⅱ表現論/言葉・言葉・根拠 つづく・・・)

2013年05月12日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-96-

言葉・言葉・根拠

いま私の手もとには三木卓の最近の詩集『子宮』がある。いまここで三木卓のことについて触れるのは、ほとんど私の思いつきである。

三木卓にとっての表現の由来というものを私が考えるとき、それは同時に私の詩の由来を明らかにすることである。私は三木卓の詩をそのようなものとして読むしかない。

詩の困難な時代に、詩の一つの確実なありかたは、詩そのものが固定したイメージをもち得ないことである。幾重にも幾重にも拡散した意識の変転を、状況として読者の意識へと提示することである。詩は、そのような状況=内=意識を対象として成立する。

いま、詩が生きのこることが出来るかどうかということは、(流通の問題とは、またはるかにへだたったところで)詩がいかにこの意味で、内部にくいこむエネルギーに満ちているかによっているといってもよいのだと私は思う。

ところで、三木卓の詩は生きのこることができるのか。

都市の地平はひろがり
夕焼け雲づたいに ゆっくりと
死者を積んだ荷車を挽いて 馬は進む
おれは 暗いテーブルにつき
塩を塗った肉と玉葱の輪切りを食う
惨劇があり 日は堕ち 一つの時代は終る
おれたちは癒されない 巨大な 
鋏の刃のあいだで まどろむだけだ
古い舞曲のオルゴールが鳴り
こどもたちは光り輝く しかし
めぐり来る夏の終りには だれも
口を噤んで衰えていくものを みつめているのだ
都市に白い霧がわきあがる
おれたちは 酒を飲み はなむぐりをからかい
痛みについて 少しだけ考えてから
真紅の焰につつまれて 闇に陥ちていく
そして 一杯の水のために目覚める 夜半
盲いた馬が かたむいているのを見る
                  (「馬」)

詩集『子宮』は、一九六九年後半から一九七二年の間に書かれたという。

私にとって、この時代はまったく偶然ではなく、激しい寓意に満ちた時代であった。何事も、私の緘黙とか私の生き方とかも、正確に一九六九年から一九七二年という時期を無視して語ることはできないでいる。
(Ⅱ表現論/言葉・言葉・根拠 つづく・・・)

2013年04月28日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-95-

この詩の内に激しい断言として唄われている、かわいた≪やさしさ≫の由来は歴然としていると言えるだろう。

石原吉郎の場合、自己の表現が既成の流通機構を解体する潜在的意志を持ちながら、しかし現実には流通機構こそが石原吉郎という人間の存在をおびやかしている悲劇がある。石原吉郎の表現行為をめぐるこの内部の葛藤が、石原吉郎の自己を解体していく過程を、私は実に想定せずにはいられないのだ。石原吉郎の表現行為は、とりわけそのノートなどという意味では、出版されてはいけないのだ!!

私は、弱いものは永久に弱いものであって強いものにはなり得ないといった意味の、石原吉郎がかつて発した完璧な比喩のことを忘れないのである。現在の流通機構によって詩人の表現行為は決して贖罪されはしないのだ。

流通機構によって拡散されるのは、詩の風景だけである。風景が巨大になればなるほど個々の人間の内部の状況は欠落していくことは明らかである。そしていま、流通機構は巨大な詩人の管理場と化しつつある。そしてそれは表現にとっての墓場である。

ルネ・シャールは語った。
「宙に浮いた、まるで雪に蔽われたような、いくつかの死などは持たぬこと。たった一つの死しか持たぬことだ、よき砂に埋まる死を。そしてよみがえりのない。」

詩を現在の流通機構から解放するために、詩人が背負わなければならないであろう原罪の重量など実は微々たるものである。解体を目指して運動をおし進めていくとき、その主体の側ではついに勝利することが完結なのではないことを、幾度目かの苦い経験のうちから私達は知り得ている。おびただしく負け続けること、みじめにたたきつけられることこそが私達の強固な内実を完成させていくことだろう。私達は、かたくなになり、誠実になり、それに見合うだけ、人間の≪やさしさ≫に敏感になっていくだろう。

この流通機構のどこに、私達の見果てぬ夢があるのだろうか。
 「イマージュが原像に対して二次的であることをやめる世界、欺瞞が真実と称し、要するにもはやオリジナルはなくて、迂路と回帰の光輝のうちに、起源の不在がそこにおいて四散する永遠なかがめきがある。そんな世界」
(ブランショ『神々の笑い』)

だが、ここで一体この「論考」は誰のものか。そしてどこにいくのか。

(Ⅱ表現論/流通機構論ノート 終)

2013年04月10日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-94-

このとき、例えば詩人であるか否か、という問いかけのみじめさは、ほとんど絶望的でさえあるだろう。
詩的表現のもつ≪やさしさ≫の強度の凝縮は石原吉郎の最近の作品「懲罰論」にみることができるのだろう。石原吉郎と詩の流通機構の問題は、私の中にまだ追究すべきものとして雑多に含みこまれているものであって、その意味で私にとって石原吉郎は正確には、未完の≪やさしさ≫と言わねばならない。

懲罰は われらに
固有なものではない
あきらかに 理由が
われらへなだれるときも
懲罰はすべての
首すじへかかわるのだ
たとえば
懲罰の理由として きみは
ドアをひらく
どのような手つづきで
開かれるにせよ ドアは
すべての人のためにある
たとえば きみは
一つの空席を示す
だがひとつの空席が
すべての理由をみたすことは
けっしてないのだ
ありあまる理由があって
われらはあふれて終り
しずかに堤防を
ひたしはじめるならば
懲罰は もはや
われらに固有なものではない
(Ⅱ表現論/流通機構論ノート つづく・・・)

2013年03月09日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-93-

流通機構論ノート

私は、現在表現行為の人間的根拠をささえる概念を<やさしさ>という言葉でとらえている。だから、私は以前に触れたロマン・ポルノについてさえも、それをあえて「鮮血にいろどられた暴力の提示」などとは考えていない。考えてみれば現在鮮血などどこにも流れようがないのだ。私達はいくつもの風俗を確実に突き抜けて、もっともっと苛酷な地点に追いやられているのだ。所詮風俗とは、もろもろの流通機構に所属するものなのだ。そして風俗にとって流通機構の存在がほとんどすべての内実なのだから。

例えば詩の流通機構のこと、それはすなわち個々人の詩人としての行き方の問題と不可分のものなのだけれども、まずもってこれを解体する必要があるのだと私は思う。解体しなければ問題は何一つ明らかにはならないだろう。

詩が、その成立とともに、ある不特定の読者の存在を意図的でないにしろ、対象として存在しなければならないということは詩にとっての本質的な悲しみであると私は思う。だが、それにもかかわらず詩が、その流通機構によって詩であるということは不幸なことであり、誤りであるだろう。

だから、いま≪詩とは何か≫と問うことを私は一切やめようと思う。私は、至るところの表現のなかに≪やさしさ≫の声を聞きだすだけにしたいのだ。詩は流通機構のものではない。詩は詩壇(!)のものではない。詩は編集者のものではない。詩は詩人のものではない。

おそらく、私は自分自身詩を書く人間としては失格であるだろうと思う。だが、と私は思う。私は敢えてひらきなおろうと思うのだ。それでは詩人とは一体何者なのだと。

私は常に、一人の人間の包囲としてある状況と、彼の内面的な所謂現象学的な言語の構造とから、その表現の≪やさしさ≫の由来を剖検していきたいのだ。私達が、永遠に求めている一つの共同社会を手に入れるためにはほとんど気が遠くなるほどの時間が必要であることは確かなのだが、にもかかわらず確実に言い得ることは、表現の流通機構にかわる新しい人間対人間の関係論を再構築しなければならないだろうと言うことである。
(Ⅱ表現論/流通機構論ノート つづく・・・)

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