成城墨岡クリニック分院によるブログ形式の情報ページです。
2014年10月16日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-114
言うまでもなく、藤田敏八の映画は一つの風俗として流れてしまうだろうという不安は常につきまとっているのだが、彼の作業を既に資本の側に収奪されている風俗とみるか、みないかということは、一つには藤田敏八自身とはまったく関係のないところで、少なくとも私達が、どのくらい、状況に対するいらだたしさと無念さを抱いているかということにかかっているのではないだろうか。その時にこそ、既に私の中で映像は単なる一般論としての驚きを超えているといえるだろう。
最後に、私は実にわかりきった問題を藤田敏八自身に語らせてみたいと思っているということを記しておく。
「甘ったれるんじゃねえ……。てめえの牙はてめえで磨け」(若者の砦)
と語る藤田敏八に。
「N・Nが現実に穴をうかがったのは、N・Nとおなじく体制の弱者であり犠牲者である。年若いガードマンと運転手たちと、七〇歳に近い神社の夜警員との、四つの生きている頭骸骨にすぎなかった。
N・Nの弾道がまさにその至近距離の対象に命中した瞬間、N・Nの弾道はじつは永久にその対象を外れてしまった。ここに体制の恐るべき陥穽はあった。」(「まなざしの地獄」)
という三田宗介の言葉に代表される内実を!
(Ⅲ映画論/「赤い鳥逃げた」=藤田敏八 終わり)
2014年09月13日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-113
かつて、70年を数年後にひかえた当時、私の友人はいつも口ずさんでいたものだ。
≪日本映画とやるときにゃ ホイ
命かけかけせにゃならぬ ホイホイ≫
黒木和雄の「新宿で女をつくろう」は、主体性の確立という困難な命題をかかげながらその作品を次のようにしめくくった。
土工と穴の中で抱きあいながら
土工「新宿でも穴を掘れるぜ」
ノコ「………」
土工「新宿で穴を掘ったら?」
ノコ「そうね」
土工「おれも、新宿で女を作るから」
ノコ「え?」
土工「新宿であんたとね」
ノコ「ああ、一緒に住むのはいやだけど、一緒に住まなくても……」
土工「どこでも会えるさ、こうやってね。」
ノコ「(うなづいて)一緒に住まなくても暮らして行けるわね。」
土工「おれ、いろんなところ渡り歩いてきたけど、やっと新宿でねえ……新宿で女を作れるようになったぜ!見通しゃ明るいや!」
いま「赤い鳥逃げた」の主人公達の掘った穴は、このような予感からは生まれるべくもない呪縛にがんじがらめにされている。生きるということが単に、青春の仮借なさを借りて語られている訳ではないのだ。
(Ⅲ映画論/「赤い鳥逃げた」=藤田敏八 つづく…)
2014年08月21日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-112
「N・Nは異常なまでの映画好きであった。彼が幼時をすごした家の向いにたまたま映画館があったということもあろうが、それよりも映画というものが、ベニヤ板の穴がそうであったように、魂を存在から遊離させるものであったからではないだろうか。」
「覗くこと。夢見ること。魂を遊離させること。それはなるほど、出口のない現実からの「逃避」であるかもしれないけれども、同時にそれは、少なくとも自己を一つの欠如として意識させるもの、現実を一つの欠如として開示するものである。
それはなるほど『支配の安全』弁であるかもしれないけれども、同時にそれは、みじめな現実を生きるわれわれの心の中に、おしとどめようもなくある否定のエネルギーを蓄積してしまう。」
「赤い鳥逃げた」の主人公、坂東宏は、永山則夫の所謂<覗く>あるいは<走る>という青春像とは別な世界に生きている。それは言わば、観念の中に生活するものであって観念の中にひしひしと押し寄せてくる支配の波に無性にいらだっているのだ。だからといって彼の生き方が唐突で普遍性がないとは言えない。命題の定立が逆だとは言えないところに「赤い鳥逃げた」の真理がある。
それは、映画を、ついには「支配の安全弁」に囲いあげてしまおうとする壮大な力に対して拮抗する者の真実でさえある。
私は七〇年以後の映画について触れたが、かつての前衛的方法論は、技術論をのぞけば現在の日本映画に於いて決定的に破産しているのであって、その意味からも「映画を!」という叫びは悲痛なものとならざるを得ないのだ。
(Ⅲ映画論/「赤い鳥逃げた」=藤田敏八 つづく…)
2014年07月28日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-111
藤田敏八が「梶芽衣子新宿アウトロウショー」をどのようにつくりあげようがあげまいが、実は「新宿によみがえるフィナーレ」などあろうはずはないのだ。かつての幻想を砕き散らすことから明日が始まるというのなら話は簡単である。だが、この夜の霧ははるかにおぞましい。
藤田敏八はそのことは知っていたはずである。彼の映画の軸となっている容赦のない実在意識と、その表象化は、この決意の裏付けがなければ存在し得ないだろう。
「赤い鳥逃げた」は「何を考えているのかわからない。ひっそり黒メガネの底から世の中をみつめているような二十八才の青年坂東宏(原田芳雄)が、大金を持ち出して蒸発したブルジョア娘との共同生活の中で、反逆と無頼のうちに過ぎ去った青春への郷愁を断ち切ろうとしても、彼はすでにかつての状況も青春にも戻れず、自己の無防備な純粋性と自己表現の仮借なさに於いて、ついに現在からも裏切られていく」というテーマを持っていた。そして、最後に実に些細なことから警官隊においつめられ、徹底的に抵抗したのち無残に焼き殺されていくシーンは印象的である。その騒動をよろこんで見つめていく群集の描写こそ、この映画の持ち得る可能性のすべてであって、恐ろしい予感にあふれている映像である。
映像表現とは何か、とあらたまって考える訳ではない。だが今までに群集の視線が映像のほとんどのリアリティーを占めてしまう作品を誰が作り得ただろう。また、逆に私はこの群集の出現を演出した真の斥力について想いをはせてみる。
見田宗介は最近の論文「まなざしの地獄」の中で永山則夫論を展開しているのだが、(もっとも見田宗介が設定しているのは永山則夫ではなく≪N・N)という一人の不特定少年の姿である。)次のように書いた部分が印象的である。
(Ⅲ映画論/「赤い鳥逃げた」=藤田敏八 つづく…)
2014年06月30日
カテゴリー:院長より
見果てぬ夢の地平を透視するものへ-110
藤田敏八の突然の衝撃であった「八月の濡れた砂」は偶然に出現したのではなかった。
一九七〇年以後、重い霧に包まれていた日本の映画表現の唯中で「映画を!映画を!」と叫び続けていた世代が、絶対に存在するという確信がなければ「八月の濡れた砂」など生まれることはなかったと言ってよいのだ。それは日活が、ロマン・ポルノの製作に踏み切る直前の混迷期でもあった。
その後藤田敏八は日活ロマン・ポルノとして、同じテーマ(いうところの青春の破産)で「八月はエロスの匂い」。「エロスの誘惑」を作りあげてきた。
そして、一九七三年には傑作といってよい「赤い鳥逃げた」を発表したのだった。
このあらゆる映画表現のもつ可能性を、荒削りになまのままたたき込んだような作品は、実に切なく魂のバラードを唄いあげる。
それは単にストーリーとか、テーマとかではなく、映画の方法、映画の作品技術にまでも浸み込んでいるものであって、だからこそ、この作品は完成もせず、収束もせず、永遠に開かれた状況として巨大な現代の壁にピンで打ちつけられているといえるのだ。
この映画は、むなしくも手足をもぎとられたまま沈められていった世代への贈りものである。予感と意志にあふれ、それでいて実にせつない贈りものである。
何度でも言うが私にとっての青春映画とは大島渚の「日本春歌考」であり、黒木和雄の「とべない沈黙」であり、浦山桐郎の「私の棄てた女」だった訳だが、その当時の黒木和雄の「新宿で女をつくろう」という幻の作品の中で、シナリオの作者は次のように記していた。
「かつて地方からあこがれ東京に出てきた私達は、今では小説や芝居や映画をつくろうとしているわけですが、新宿という街はそのような私達と共にあります。新宿は失われた時を求めるに充分なカスバであり、その路上は過去への遡行であると見えながら実は鮮血にいろどられた未来を準備するものであります。私達が新宿で女をつくることの大切さは、もう云うには及ばないことであります。」(内田栄一・清水邦夫・黒木和雄)
だが、いま現実に、新宿は何ものかの大きな力によって引き裂かれ、完全に占拠されてしまっている。新宿こそ管理によって占拠されたモデル都市なのだ。
(Ⅲ映画論/「赤い鳥逃げた」=藤田敏八 つづく…)