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墨岡通信

成城墨岡クリニック分院によるブログ形式の情報ページです。

2014年02月20日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-105

「叛軍」製作集団による映画「叛軍」のラストシーンは強烈である。

壁の前に若い男が立つ。

「男Aに扮することをやめる。男Bに扮することをやめる。そしてなにものにも扮することをやめる。それで“私自身”と呼ばれるものがあとに残ったわけではない。さらに私は扮し続けてゆく。なにものにも扮することをやめ、なお私は扮し続ける。扮し続ける私を“私自身”と呼ぶことはできない。そして私は、“私自身”に扮している私、ですらない。私のうしろにも、“私自身”と呼ばれる私はいない。私のうしろで私はなにものでもない。ただ私がいる。扮している私がいる……。」

現在、映画における方法論について述べることはつまらない。方法論はすなわち表現論の中に暖く包みこまれてしまわれているのがいい。私達は例えば映画の中に何を見るか。俳優の演技の上手下手はどうでもよい。作品の評価などどうでもよい。単なる映画技術などもまたどうでもよい。

映画を作り出すという共同作業のなかで、作り出す側の交錯した意識が、どれだけ表現への意志となって突出していくかということを私は問題としたいのだ。

作品の解釈が幾重にも可能である映画こそ本質的な映画表現である、というときそれは映画を作り出す主体が中途半端なイメージをこねまわしているということではない。むしろ逆であって、それは表現の主体が強烈な自己主張を持っていることの当然の結果である。そこには、はじめから観客は観客として存在しない。同時に観客もまた表現の主体になり得るという遠い予感に安住している訳ではなく、観客もまた映画の作り出した状況によって、映画を造りあげていくものだという透明な認識がそこにはある。
(Ⅲ映画論/映画・表現・詩 つづく…)

2014年01月23日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-104

Ⅲ映画論

私が映画に直接かかわっていた頃の論考であり、今では既に過去のものとなってしまった作業である。しかし、私は現在でも映画表現の可能性に私自身の夢をかけてみたい衝動にかられることがある。その意味でも、どうしてもこの本の中に収録しておきたかった。

時期を同じくして、同一の主題のもとに書きつらねたものなので、論理の重複もある。
「映画『旅の重さ』をめぐって」、「日活ロマンポルノの周辺」は、これも雑誌『詩学』に「私的表現考」の一部として連載したものである。


映画・表現・詩

映像表現を≪批評≫することによって、その表現の核に到達しようとするとき、私に与えられている方法論=認識論とは一体何なのだろうか。私が最も深く関心を持たざるを得ないのは、その表現の主体である人間の生き方であり、その人間が表現を提示しようとしている状況の構造である。

だが、その時私の映像表現を≪見る≫行為とは一体何なのだろうか。無論、私は既におぞましい状況の嵐の中に存在している。そして言うまでもなくその時点で、私は表現を夢みた人間達のあえぐような逼迫感をさぐりあてようとしている。だが、だからこそ私の≪見る≫行為の基盤とは何なのか。

既に今日、映画は≪批評≫としては成り立ち得ない場所にある。象徴論としての映画批評も、運動論としての映画批評も、技術論としてのそれも、もはや役に立たぬ遺物でしかないのだろう。

映画は、表現の一形態としても、観客の側にとっても無限の拡散現象をみせはじめている。意識の内部、知覚の内部に志向し未知なる経験の嵐をまきおこそうとしている。だからこそ映画は≪批評≫として成り立ち得ないのだ。しかし、そのとき私にとって映画を≪見る≫こととは何なのか。
(Ⅲ映画論/映画・表現・詩 つづく…)

2013年11月25日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-103

このようにして、状況の内部に打ち込まれた個人的表現を、人間一般、あるいは大衆一般の表現へと志向させているものは、まぎれもない人間の真の連帯への意志であり、事象そのものに基いた私達の現象学的やさしさとでもいうべきものである。

何よりも事象そのものに志向し、事象そのものを了解する意志に裏づけられた、現象学的やさしさの存在なしにはすべての人間的表現活動は能動化され得ないだろうと私は思う。私達は幾多の分裂と、挫折とをくり返しながらこの現象学的やさしさを身につけていくことだろう。負けることを恐れてはならないのだ。それは多分、私達の問い続けていく生き方そのものに併行しているものであると私は考えるのだ。

そして、それらの営為のはるかかなたにあるべき、人間の真の連帯と新しい共同体の問題について、私達は現実そのものの認識と予感、そして日常での実践を背景にして、いずれ壮大な俯瞰図を描いていかなければならないものなのである。
(Ⅱ表現論/表現へ! 終)

2013年11月12日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-102

現実に、作品として知覚され、表象され得る表現は、客観的表現として提示されているものであって(それはまさに提供されているものであって)、私達の諸感覚はそれら客観的表現を受容し、私自身の自我、人格、そしてそれらと同等のものとして把え得るはずの状況的抑圧とによって幾重にも粉飾された感情(情動)の仮面をはぎとられながら、私的表現の中核にむかって逆進する。この心的プロセスの全体が、表現の在り方そのものであるといってよいのではないだろうか。

しかし、だからといって表現自体が既に、あらゆる意味で個人的体験にのみゆだねられていると考えるのは誤謬である。

私が何度も強調するように、個人的体験が深く深く状況的外在によって修飾されているという意味において、この表現の存在過程は、同時に個人的状況によって状況のプロセスの渦中に突出しているのである。換言すれば、状況の中に開かれたものとして表現の位相は定置されている。

だから、私が述べる表現論のなかでは、例えば表現されたものとしての作品の真の意味で価値とみなされるもの(すなわち、真・善・美、そして芸術性という叙情、レトリック等々)は作品そのものに固有のものとして内包されているものではあり得ない。このような価値は表現のプロセスから自律しているものではない。作品は単に表現のプロセスにむかって問題提起をするにすぎない。だから、次のように言うことができるのだ。

いかなる意味においても、多様な人間的解釈を提供し得る作品こそが、唯一の永遠の作品と言えるのである。
(Ⅱ表現論/表現へ! つづく・・・)

2013年10月20日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-101

 まず、詩人が生活する空間を流通の機構から遠く疎外させること。したり顔をした流通機構の存在は、それがいかに反中央的、反党派的に見えようとまぎれもなく権力的な存在である。彼等は、ただその権力の在処を巧妙に詩人の感性へとおもねっているだけなのである。
 だからこそ、流通機構そのものを詩人が作っていると考えることは厳しい誤謬である。詩人の感性も、(むなしくも)こうした構造に関してはあてにならない。自己の内にある加害的な生き方についてどこまで深く自己認識できるかが、心優しい者に与えられた唯一の宿題なのである。
 例えば、詩人にとって、自己の詩そのものの内在的な必要性と、読者の側にとっての詩の必要性とは根本的に異質なものである。この原始的な悲しい亀裂について私達は奥深く考えるべきなのだ。この亀裂が存在し、この亀裂の中に流通の問題が存在しているとするならば、詩人の発する感性も、詩人の生き方もすさまじい歪曲の内側にあると言わなければならない。
 ここで、私は単に詩人と読者の存在の対立について述べている訳ではない。表現をめぐる真の意味での階級性の問題というものは、もっともっと別に極めて危機的なものとして存在するはずのものだが、それは別として、ここで、私は詩と表現の意味性を明らかにしたいのである。
 私達が詩の言語というとき、それが指し示すものは単なる想像力の範囲を超えたものである。イメージ、そして創造への意志。多くの比喩によって統合され、そしてまた引き裂かれ、詩語はついに意識の深奥、すなわち個人の内的経験のなかで他のどのようなものにも置換できない、純粋な力動へと連なっていくだろう。それが、表現の中核である。それ故に、表現の存在は純粋に人間の諸感覚以前のものとして規定されなければならない。そしてそれは常に私的表現以外のなにものでもあり得ない。
(Ⅱ表現論/表現へ! つづく・・・)

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