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墨岡通信

成城墨岡クリニック分院によるブログ形式の情報ページです。

2014年06月30日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-110

藤田敏八の突然の衝撃であった「八月の濡れた砂」は偶然に出現したのではなかった。

一九七〇年以後、重い霧に包まれていた日本の映画表現の唯中で「映画を!映画を!」と叫び続けていた世代が、絶対に存在するという確信がなければ「八月の濡れた砂」など生まれることはなかったと言ってよいのだ。それは日活が、ロマン・ポルノの製作に踏み切る直前の混迷期でもあった。

その後藤田敏八は日活ロマン・ポルノとして、同じテーマ(いうところの青春の破産)で「八月はエロスの匂い」。「エロスの誘惑」を作りあげてきた。

そして、一九七三年には傑作といってよい「赤い鳥逃げた」を発表したのだった。

このあらゆる映画表現のもつ可能性を、荒削りになまのままたたき込んだような作品は、実に切なく魂のバラードを唄いあげる。

それは単にストーリーとか、テーマとかではなく、映画の方法、映画の作品技術にまでも浸み込んでいるものであって、だからこそ、この作品は完成もせず、収束もせず、永遠に開かれた状況として巨大な現代の壁にピンで打ちつけられているといえるのだ。

この映画は、むなしくも手足をもぎとられたまま沈められていった世代への贈りものである。予感と意志にあふれ、それでいて実にせつない贈りものである。

何度でも言うが私にとっての青春映画とは大島渚の「日本春歌考」であり、黒木和雄の「とべない沈黙」であり、浦山桐郎の「私の棄てた女」だった訳だが、その当時の黒木和雄の「新宿で女をつくろう」という幻の作品の中で、シナリオの作者は次のように記していた。

「かつて地方からあこがれ東京に出てきた私達は、今では小説や芝居や映画をつくろうとしているわけですが、新宿という街はそのような私達と共にあります。新宿は失われた時を求めるに充分なカスバであり、その路上は過去への遡行であると見えながら実は鮮血にいろどられた未来を準備するものであります。私達が新宿で女をつくることの大切さは、もう云うには及ばないことであります。」(内田栄一・清水邦夫・黒木和雄)

だが、いま現実に、新宿は何ものかの大きな力によって引き裂かれ、完全に占拠されてしまっている。新宿こそ管理によって占拠されたモデル都市なのだ。

(Ⅲ映画論/「赤い鳥逃げた」=藤田敏八 つづく…)

2014年05月26日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-109

「赤い鳥逃げた」=藤田敏八

一九七三年五月二日、藤田敏八の構成による「梶芽衣子新宿アウトロウショー」が公開された。梶芽衣子といえば映画「さそり」について触れなければならない訳だが、それはあとまわしにすることにして、この「梶芽衣子アウトロウショー」は藤田敏八の表現における徹底した仮借なさを舞台の上に持込んだものとして、私には興味深いものがあった。

梶芽衣子が「網走番外地」を歌い、三上寛が「さすらい」を唄うとき、そこはもうかつての日本映画の熱っぽい高揚ではなくて、まるで異った位相の提供であって、感傷と郷愁と明らかな意志機構の場だけが深く深く進行していくように思われるのだ。

映画青年といわれた者達が、必死になって中島貞夫の「網走番外地」や「893愚連隊」を追いもとめていたとき、確かに私達は映画に対する認識に一つの誤りがあった。それは映画表現を企図された象徴としてのみ取扱い、映画のもつダイナミクスをいかにも些細な偶像のなかに閉じ込めてしまったことである。藤田敏八について語るときまず日活ロマン・ポルノについて論じるという野暮は持ちあわせていないが、極端に言えば、このダイナミクスという点については日活ロマン・ポルノのいくつかは正しく時代を先取りしていたのだ。

そしていま、梶芽衣子の「怨み節」。

花よき麗と おだてられ
咲いてみせれば すぐ散らされる
馬鹿な バカな
馬鹿な女の 怨み節

死んで花実が 咲くじゃなし
怨み一筋 生きて行く
女 おんな
女いのちの 怨み節

(Ⅲ映画論/「赤い鳥逃げた」=藤田敏八 つづく…)

2014年05月11日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-108

だが私は表現の問題、知覚の問題を単に映画についてのみ語ろうという訳ではない。いままで述べてきたところでも明らかなように私が問題にしたいのは、表現一般のことであって、換言すればそれは人間における自己表出の問題なのである。

このことは、私が映画についてよりも、より苦しいところでかかわりあっている≪詩≫についても言えることなのである。

ロマン・ポルノの中でも最近の神代辰巳の作品などでは特に、映像が単に知覚としてはじまるのではなくて、より奔放に細分割された映像によってじかに人間の存在に触れるというところにまで至りはじめているのだ。元来知覚の作用範囲でとりあげられてきた映画と、純粋に存在的表象としてあるところの≪詩≫とが、表現への意志というものを契機として深く深く結びついていく過程を考えることは興味深い。

だが、映画にとっての永遠の夢が≪人間≫を描くことだとすれば、詩にとっての永遠の夢もまさに≪人間≫を描くことなのだからこの内的な共通性は当然なのだ。ただ私が思うのは、≪映画≫とか≪詩≫とかいう表現形態のいかんにかかわらず人間の表現全体にかかわる壮大な存在論が要求されているのではないかということである。そして、それは一方では現代日本の社会的状況と密接にかかわりあいながら、もう一方の端では人間の意識の根本的な現象の再点検という作業を必要とするだろうという気がする。

≪詩≫について私が常に語り続ける苦しい状況というものは、無論≪映画≫にとっても存在するものである。しかし、それは単にロマン・ポルノの取締りがどうのということでは決してない。私達がいつか対峙しなければならない相手というのは、この国の至るところで既に内在化されているものである以上、私達が新しい表現論を手にし、表現の流通過程を手にするのは、はるかな遠い朝である。

(Ⅲ映画論/映画・表現・詩 終わり)

2014年04月25日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-107

所謂ネオ・リアリズム以後の映画作品は、映画作品のもつ象徴化の過程と真向うから対立する形でリアリズムそのものを表現の強力な武器としてきた。だがもともとリアリズムというのは映画を≪見る≫側にとっては単に認識作用を軸とした表象化現象にその根拠を置いている訳で、考えてみれば私達は一つの映画表現の息吹きに直接触れるためにはいかにも疎遠な道をたどらなければならなかった。

だが、ロマン・ポルノなどの一連の作品はまさに映像のダイナミックスそのものであって、表現への意志というものが一種の心的緊張状態として映画の核をささえているのである。いうなれば一カット一カットをつなぎとめる強固な論理性も感覚もそれほど重要な契機である訳ではなく、カット割りの裏側にあるものは心的機制による状況作りである。

ロマン・ポルノに対する権力の取締りなどというものは、従って問題にならないほど表在レベルでのことであって、表現としての映画について本質的には何の関わりもない。

 「意識に属する(知覚の)内容と(知覚の)対象との区別から、意識についての一般的本質洞察が得られる。」とビンスワンガーは語ったが、私がいま組みたてようとしている現代日本映画の存在論みたいなものについて触れようとするとき、かならず思いだすのはビンスワンガーの次の言葉である。

 「われわれの知覚するのは感覚ではなくて対象である。しかし知覚された対象は知覚の中に含まれるのではなくて、われわれは知覚することにおいて対象へと方向づけられ『知覚という様態において』自己を対象に関係づけるのである。」(『現象学的人間学』)

(Ⅲ映画論/映画・表現・詩 つづく…)

2014年03月13日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-106

「視覚は思考の一様態とか自己への現前ではない。それは、私が私自身から不在となり、存在の烈開――私が私自身に閉じこもるのは、その極限においてでしかないのだ――に内側から立ち会うために贈られた手段なのである。」(メルロ・ポンティ『眼と精神』)と述べたのはメルロ・ポンティだった。

例えば私は今、かつての日活ロマン・ポルノの一連の作品を想いうかべている。そこには藤田敏八があり、神代辰巳があり、村川透があり、田中登があり、それは同時に映画表現の現代における可能性の豊かな脈絡があった。

日活ロマン・ポルノを作品論としてとらえることはあまり意味がない。これらの作品は、映画表現の激しいダイナミックスのなかから生まれてきたものである以上、私達もまたその泥くさい葛藤の中へドップリとのめり込んでいかなければならないのだ。

ところで、見田宗介は「まなざしの地獄」の中で論に触れて次のように述べていた。

「N・Nは異常なまでの映画好きであった。彼が幼時をすごした家の向いにたまたま映画館があったということもあろうが、それよりも映画というものが、ベニヤ板の穴がそうであったように、魂を存在から遊離させるものであったからではないだろうか。」

「覗くこと。夢見ること。魂を遊離させること。それはなるほど、出口のない現実からの『逃避』であるかもしれないけれども、同時にそれは、少なくとも自己を一つの欠如として意識させるもの、現実を一つの欠如として開示するものである。」

映画について触れられた言葉としてこれは非常に示唆に富んでいる。だが、ロマン・ポルノの作品のいくつかは純粋に映画に関するこうした概念化を突き破ってしまっていると言わねばならない。例えば藤田敏八の「八月はエロスの匂い」ではデパートのレジを襲ったやぶ睨みの少年は、おそらくは多くのの内の一人であるだろうけれども、彼は現にこの映画の中でみごとな自己表出を可能にしているのである。の持つ欠如そのものを、これほど映画表現の作業者達に共同のものとして把握した形式がいままでにあり得ただろうか。

永山則夫を描いた新藤兼人の「裸の十七才」のリアリズムなどではとうてい及びつかない内的体験の表象を可能としているものは一体何なのだろうか。
(Ⅲ映画論/映画・表現・詩 つづく…)

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