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2016年05月12日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-134

彼はまた、この論考の最後の部分で、激しく、しかも悲哀に満ちて叫ばずにはいられない。

「<治療>や<運動>を語って、“人間”を見ようとしない者こそ死んでしまえ!ということになる」

「想いはどこまでも屈折する」と渡辺良が書くとき、彼の悲しさ、むなしさは痛いほど私にも伝ってくる。私達は現実に何をすればいいのか。一体どこから如何にはじめるべきなのだろうか。現実に対する客観的鳥瞰図がなくても私達はやらなくてはならない。私達はいかなる意味においても効果など期待しないでやらなくてはならない、と私は書き続けてきた。だが、それは単に決意の問題にすぎないのだろうか。私はいかにも長い間一つの部屋に閉じこもり、あるいはまた一つの状況の内に身を置いてきた。だが、そのいわば状況に対する不定形な場所で私自身が表現行為を続けていくことに何の意味があるのだろうか。

一歩、一歩、そして、一人、一人の人間にむかって私達は私達自身の生き方について語り、説明し、“納得”してもらうべきなのだろうか。だが、もしそうだとすれば私達は、自己の生涯の内に一体どれだけの“共に生きる”人間が見出せるだろう。あらゆるところで効果を期待しない私達の生き方は、自己を自己のまま完遂していけばそれですむのだろうか。そして、その曲折した遠い道程の間にますます完璧な収奪の論理のもとで現実の問題としてかかわりあってくる一つの体制に対して、私達はなおかつ絨黙を続けるのだろうか。

風俗的なレベルでいかに自由が謳歌され、いかに個人的に人間性が吹聴されたとしても、それは既に巨大な権力の前に弄ばれている一羽の小鳥にすぎない。それは私達のあらゆる表現の問題にかかわっている現実である。映画表現もTVも、例外ではあり得ない。

(Ⅳ私的表現考/表現の現象学 つづく・・・)

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