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2022年03月29日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-193

「生涯のうちに、じぶんの職場と家とをつなぐ生活圏を離れることもできないし、離れようともしないで、どんな支配にたいしても無関心に無自覚にゆれるように生活し、死ぬというところに、大衆の<ナショナリズム>の核があるとすれば、これこれが、どのような政治人よりも重たく存在しているものと思想化に値する。ここに<自立>主義の基盤がある。」(吉本隆明『自立の思想的拠点』)

吉本隆明にとって幻想とは例えば次のように語られる。

「人間の本質的な意識作用、つまり意識作用が生活にまつわる念慮・配慮から離脱すればするほどそれだけいっそう意識の固有のはたらきが加速され、増殖肥大してゆかざるを得ないような意識の作用」(遠丸立『戦後文学キーノート・吉本隆明』)

こうして、吉本隆明が幻想の問題をつきつめようとしていくとき、その作業は表現行為論へと収束され、もう一方の極は意識の内部の問題、すなわち『心的現象論序説』へとむかう。表現論の内で、被表現者の論理として定着されていくものは、認識の論理から逸脱した存在の論理の声である。そして、『心的現象論序説』の内で吉本隆明が執拗に追求しようとする作業は存在と状況とのダイナミクスである。

何故、私達にとって存在の問題が重要であるのかは、このような状況の問題と不可分ではあり得ないのである。

そしてまた、例えばフロイト、ユング、ライヒ以後の精神分析的流れにあって、現在的意味での存在(主観=自我)の問題と、状況との問題とを臨床的にもある程度きわだったものとして規定してみせたのがエリクソンであった。だがエリクソンは自我同一性の概念と、自我拡散症候群と名付けた一連の状態とを、社会変動の力学に符合させて一元的に理解し得るという論理をおしひろげるなかで、あまりにやすやすと自我の壁を状況の図式化された在り様で突き破ってしまった。そこには、あまりにも個々のものとしての状況がなさすぎ、従って本来的に個々としての自我については、それまでの自我心理学の領域をほとんど出ることは出来なかった。

(Ⅴ状況のなかの精神医学/何故、今、レインなのか? つづく…)

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