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墨岡通信

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2010年07月10日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-47-

白秋に対する同性愛とか、門を出るとき、いつも左の足からでないと踏み出せない=強迫行為とかが、ひとたび<人間的異常>の範疇にある言語で規定されると、それらは際限なく拡散し、見えもせず実体もない仮空の構造として朔太郎の世界を映し出すのである。このようにして、人間の表現行為がどんなに歪曲されてきたか私達は無数の例をあげることができる。それは単に、対象となる実現者を誤らせるだけではなく、人間の表現論そのものを誤らせるのである。

 私がここで執拗にこのことをくり返すのは、実は朔太郎自身がこの種の呪縛から逃れてはいないということに触れたいためなのだ。

 朔太郎自身が己に関して書き綴ったおびただしい異常性への傾倒は何を意味しているのだろうか。朔太郎の自我が持つ強大なデフェンス機構の解釈からだけでは、この答えは見出すことはできはしない。

 「僕は昔から人嫌ひ、交際嫌ひで通ってゐた。しかし、それには色々の事情があつたのである。もちろんその事情の第一番は僕の孤独癖にもとづいて居り、全く先天的気質の問題だが、他にそれを余儀なくさせるところの環境的な事情も大いにあつたのである。元来かうした性癖の発芽は子供の時の我まま育ちにあるのだと思ふ。僕は比較的良家に生れ、子供の時に甘やかされて育つた為に、他人との社交について自己を抑制することが出来ないのである。その上僕の風変わりな性格が小学生時代から仲間の子供とちがつていたので、学校では一人だけ除けものにされ、いつも周囲から冷たい敵意で憎まれていた。」(「自叙伝覚え書」)
(Ⅰ詩人論/朔太郎の内的世界つづく…)

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