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墨岡通信

成城墨岡クリニックによるブログ形式の情報ページです。

2026年08月24日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-17-

『歩行者の祈りの唄』から『単独者の愛の唄』、『糾問者の惑いの唄』を経て、『死法』に至る山本太郎の詩集は、言葉の喪失という地点(あるいは地平)にむかって全速力で突き進んできた一人の愛すべき人間の履歴であった。

山本太郎の詩を包み込んでいる透明な悲哀感は、山本太郎自身の言葉に対する異和感、苦渋の想いの反転された姿なのではないかと私は思うことがある。山本太郎は、その詩の原点から既に自己の生き方を厳しく規定してしまっていたのかも知れない。だから、山本太郎の詩を、まぎれもなく状況的だと評するのはゆきすぎかも知れない。だが、私はそれにもかかわらず山本太郎という詩人を状況の内で解釈したい。何故なら、私にとってそうであったように状況の内で山本太郎の詩が読まれる以外に、山本太郎の詩を受け継いでいく“場所”は、ほとんど存在しないのだから。

『歩行者の祈りの唄』は確かに一九五四年という時代を背景にしてはじめて生まれ得た作品であった。

殖え 育み
集団の名で見事いきのびた 歩行類の勝利の唄だ
嘲笑も自慰も仰々しい祈りも
それらあらゆる詐術を知らぬ
巨きな笑い

おお そこまで帰るために
おれはあんまり遠くまで来すぎたのだろうか
おれはいま 祈りさえ利用しようとしているのだぞ
ああ 悲しみ小さければ怒れもしまい
ややも産めまい
せめてこの深夜
動きエオアン·トロープスのおさに
烏こなるわらべ一匹
丸ごと捧げる こころをうたう
(「心強きみおやなるエオアン·トロープスのおさにうつしよの烏こなるわらべ一匹丸ごと捧げる唄」)

(Ⅰ詩人論/山本太郎論 つづく・・・)

2026年06月29日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-16-

おれたちの言葉は
射程をもたぬ
きづいているか
みな心をめがけて落下しているのだ
魂などみじんに砕け
原形をとどめぬ
今朝も神という言葉が
冷えきった飲物のように
おれののどをおりていった。 (「行方不明の言葉」)

ひとたび肉体的な暴力に対峙をよぎなくされた者にとっては、日常の生活の場における観念的生活が一つの幻影にすぎないものとなるだろう、というのは誰が発した言葉だったろう。いま、私達はこの言葉とは遥かに遠いところにいるのだ。と、同時に言葉そのものにも暴力性などというその場限りの幻想を持ち込むことを拒絶しなければならない。これは、それだけ現在が苦しい季節であることの証左であるかも知れない。

詩は、暴力的詩語によって自立できない。詩は変容しなければならないだろう。それでは、詩とは一体何なのか。こうした問いかけに対する一つの解答を、私は山本太郎の詩のなかに見出すことができる。

山本太郎の詩は、私達にどうしようもなくかかわってくる。その意味で、山本太郎の詩は状況そのものなのだ。私達の内部意識にむかって、おびただしく状況を打ち込む銃撃手なのである。山本太郎の詩には遂に完結するイメージは存在しない。無限の変容と、途切れることのない精神の緊張状態の連続であって、個々人の重い日常の場に鋭くつらなっていくものである。

この意味で、山本太郎の詩は出会いの詩とも言えるかも知れない。山本太郎の詩の一語一語には山本太郎という詩人の変転する巨大な意識の渦が懸垂していて、これらの詩語を統括するものとして山本太郎を論じることは到底不可能である。だから、私達は山本太郎の詩に出会うことしかできはしないのだ。山本太郎という詩人の生き方に出会うことしかできはしないのだ。それが、山本太郎の詩を実に悲壮的にと成立させている理由でもあり、山本太郎の問いかけの深い基調をなしているのである。

灰の指 灰の指
指をたてれば
疲労の犬がとんでくる
明日は愛さぬ時間
(おれはもう
(おれの時間を
訓育するものは怒り
人生をこえるのは
つねに立体であると
肝に銘じて承知しているが
まずもって言葉が
視界をさえぎる (「テロリストの指」)

(Ⅰ詩人論/山本太郎論 つづく・・・)

2026年04月27日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-15-

だがしかし、これから私達が経験していかなければならないのは、表現行為というものにとって、まったく未知な空間であると言えるだろうと思う。何のために書くか、誰のために書くかという根本的な問いそのものが、そこではまず粉々に粉砕されてしまっているだろう。しかも、流通機構の実質を反権力的にうちたてることという巨大な課題が一方には位置しているのである。

不幸にして、山本太郎は野たれ死ぬかも知れない。野たれ死ぬからといって状況はまるで変わらないかも知れない。そして、山本太郎のすさまじく硬直した感性だけが宙空に成仏できずにさまよいあるくのかも知れないのだ。しかし、結局一人の人間の表現とはまさにそのようなものなのではないのか。だからこそ、一人一人の表現行為は鋭く権力に対峙し得るはずなのだ。

山本太郎が自己の詩の根拠としているもの、山本太郎を詩の莫大なエネルギーの構築として突き進ませているものは、人間の感性に対する限りない愛なのだ。そして、こうして山本太郎の表現の持ちえたやさしさの根源だけは、現実に一つの時代の役割を果たしていくだろうと私は思うのだ。

「人間を苦しむ神、いや、俺を苦しむ神がどこかにいなければならない。俺はその神に、存在の悲しみを『問わ』なければならない。『問い』の仕事をはじめるべきだ。こんどはあわてず、ゆっくりと、神に届く言葉で」(「山本太郎・詩論序説」)

山本太郎の詩や散文の持つ、おびただしくもすぐれたアフォリズムは、時に私達の意識の最も表層をのみ、うちふるわせて通り過ぎてしまいがちである。山本太郎の詩をそうして読むにすぎないことは実に、詩人にとっても表現に接するものにとっても大きな悲しみである。山本太郎の言う「存在の悲しみ」というものの内容は、詩人の心的現象のウッ屈した表象にもとずいているはずであって、こうした奥底の詩人の生き方にまでたどっていかない限り決して正当には論じ得ないのだ。

(Ⅰ詩人論/山本太郎論 つづく・・・)

2026年03月02日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-14-

私にしたところで、たとえそれが一片の幻想にすぎないにしろ、医療の現場で真に革新的な闘争をおしすすめるということを大学の場で一致した時点で(それ以外の闘いの実質はことごとく粉砕させられた時点で)、遂に医師という存在として歩きはじめたのだ。しかし、現在、昔の仲間の一体誰が闘争を担っていけるというのだろうか。

離人症の患者の内部で分裂していくものが《自我意識》だとするなら、時代の内部で深く深く分裂していったものは一体何なのだろうか。

だからこそ、私達は表現の場を求めている。人間のものとして、私達の生きている限りのものとして表現の場は要求されているのだ。そして、そこではあらゆる、人間に関する幻想を解体させなければならない。おびただしい《ひらきなおり》の羅列こそ、私達のものなのだ。

「その認識は我々に、我々の時を愛させる。我々の時とは、知覚させる最も小さな物のようにーーシャボン玉のように、波のようにーーあるいは最も簡単な対話のように、世界の混沌と秩序のすべてをその中に分割されていないままに包含するものだ」(メルロ・ポンティ)

(Ⅰ詩人論/山本太郎論 つづく・・・)

2025年11月27日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-13-

現在、いまだ新しい現代詩の運動体はどこにも存在しない。これは<表現>にとってさえ実に異例なことではないか。現代詩ほど旧式な表現論しか持ちあわせてはいない私達の表現の形が、他にあるだろうか。現代詩には真に時代との緊張関係を露呈させるものは実にわずかな存在でしかないのである。

山本太郎の存在する位置はこうした困難な問いかけをまる捉えしたところにある訳で、彼自身のおびただしい、叫びにも似た問いかけの言葉は単に山本太郎の詩、一篇の詩の完成のためにある訳ではない。

ある日とつぜん
私は旅をはじめていた
鞭のように鳴る肉体を過ぎ
恋のめまいを過ぎ
蜜の巣の子供達を過ぎ
四○年歩いていつのまにか
夕焼のようにひろがる
徒労にとどいていた
頂上を渡る死の
酸性の風よ
この日ごろ私は
祈りのかたちに畳まれ
小さな舟のように流れていった
ちち・ははをしきりに想う

遠さがある
星よりも遠く
私のなかに
遠さがある (「遠さがある」)

例えば、離人症の患者が、ある時点から突然に世界の変転を経験し、総ての自己の感覚・知覚に対して深い(本質的な)疑惑と恐怖を抱きはじめるように、私達にとってある時点から突然にこの時代は変化しつつあったということは言えないだろうか。

学問は退廃し、大学は管理され、表現は掌握され、まさに私達の声なき声はどこまでも拡散して、どこからも返ってこない。一九六八年より以前、誰も今日の厳しい風化のことを予想するものはいなかった。そして、現在ではもはや、あの数年前の闘いの質に触れるものさえいない。

日常性の中に闘争そのものを持ち込むことなど出来はしなかったのだ。

(Ⅰ詩人論/山本太郎論 つづく・・・)

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