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2017年10月27日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-151



この“表現の現象学”の項は今回で区切りをつけようと思う。無論、それは完結したという意味ではなく、より開かれたものとなるためである。視点を別のところに移すことによって私は再び問いただすことの原点にもどらなければならないと思うのだ。

私自身が、至るところ“人間”に出会うことにより、生きていくことの意味において、本当に必要なものは何か。その“もの”を激しい状況の渦の中に迷入させてしまっている抑圧の構造とは何か。私達の“敵”とは何か。

私は最近の精神病理学、精神現象学の流れをふまえながら私自身の表現論という立場からの「まなざし論」を語る機会を得た(歴程セミナーでの『まなざしの現象学』)そのなかで私は、意識における内化、外化の問題、最近の共同主観論、物象化論などに触れながら多くは現象学的人間学的に即して「まなざし」の幾つかの意味を語った。

たまたま、この時期にメダルト・ボスが来日し彼の「精神分裂に病むことを、現存在分析的現象学にてらしてみて」と題する講演など聞く機会もあり、私なりの表現論に得るところは大きかったと思っている。

意識の構造を状況との接点においてとらえる表現論の地平は、まず最初にして最大の壁につきあたる。それは、私が何度もくり返すように、主観と客観の二元論、認識と存在の二元論をいかに克服するかということである。それは、現在のあらゆる思考方法の桎梏であり得る限り、私達もそれを避けて通ることは出来はしないのだ。それだけではない。この問題を抜きにしたまま、私達の意識に関する諸科学が独り歩きをはじめるとき、それは人間個人に対する誤謬に満ちた抑圧となるのである。

ビンスワンガーは、この主観と客観との分裂を指して「科学の癌」とよんだ。それは、現在もなおも進行中の疾病そのものであると私は考えたい。

この「科学の癌」をいかに超克するか、その困難な問いかけに答えようとするいくつかの試行がある。

それは、まずフッサール以後の現象学を意識の内部、人間の存在様式の内部に持ちこもうとしたハイデッガー、ビンスワンガー、ボスなどの現存在分析としてある。

(Ⅳ私的表現考/表現の現象学 つづく・・・)

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