ホーム >> 墨岡通信(院長より : 31ページ目)

墨岡通信

成城墨岡クリニック分院によるブログ形式の情報ページです。

2011年11月11日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-69-



朔太郎は、彼の方法論の凝集である『詩の原理』の構成を、まず「主観と客観」という一章から始めようとした。私には、このことがひどく象徴的なことのように思われるのである。朔太郎の論理のうちにあった、「主観と客観」とは、現在私達が考えているところのそれとは直接には結びつかないのだけれども、朔太郎の論理のうちに、このような原理的な問題に関して、二元論的な設問のあり方が位置していることに接して、私は朔太郎というアンビバレンツな詩人の意識構造の一端を理解できるような気がするのだ。
 朔太郎がこのなかで、ウイリアム・ジエームズの説などを引用しながら表現しようと試みたのは、実は、方法論=認識論としての「主観と客観」の問題ではなく朔太郎自身にとっての詩の位置を定位する作業であったといってよい。朔太郎自身も後に、『詩の原理』新版の序のなかで次のように述べている。
 「私がこの書を書いたのは、日本の文壇に自然主義が横行して、すべての詩美と詩的精神を殺戮した時代であつた。その頃には、詩壇自身や詩人自身でさへが、文壇の悪レアリズムや凡庸主義に感染して、詩の本質とすべき高邁性や浪漫性を自己虐殺し、却つて詩を卑俗的デモクラシーに散文化することを主張してゐた。」
 しかし、朔太郎自身が意識していようがいまいが、朔太郎の意識の奥深には、方法的に「主観と客観」という設定によって確実に引きさかれる何かが存在していたことは確かである。それは、朔太郎の表現行為が、詩とアフォリズムそして論理化された詩論にと分極化されて存在していることの表象でもあり、朔太郎の自我が揺れるように同一化されていた<詩人>としての同一性の不確定なあり様のひとつの象徴でもあるのである。
 朔太郎の自我は、自らが自己自身に価した策略にもにた同一化のなかで、ついに主観の内部でさえも、徹底的に解放されることのない袋小路においこまれていくのである。
(Ⅰ詩人論/朔太郎の内的世界つづく…)

2011年10月13日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-68-

 朔太郎はやはり、朔太郎を読み続ける人々の精神的自我のなかに深く深く根をおろし、それ故に、この意味においてどこにでも存在する朔太郎であるべきである。朔太郎の苦悩が深ければ深いほど、それは私達の苦悩の典型として表現されることになる。情感と苦悩の伝達を可能としているこのような表現の形態を私達は他に見出すことが難しいのだ。
 「<詩人>としてしか生きていけない人間」の内的構造に触れながら、私達はふと、「病人としてしか生きていけない人間」のことを想うべきなのだ。そして、私達は人間存在が持つこのような不可解な呪縛の措定からどのように自由であり得るのかを考えていかなければならない。問われているのは、私達自身の人間的開示性の根拠なのである。

 この章の最後に、もう一度朔太郎の母のことに触れておく。
 萩原葉子の『父・萩原朔太郎』には次のように記述されている。
 「しかし父が亡くなってからの祖母は、次第に元気もなくなり、血圧もかなり高くなって耳鳴りもひどく、足もとも危ぶなっかしくなってきた。そして、
 『まさか子どもに先立たれようとは思わなかった』といって、頼みの綱がふっつり切れたように、力を落としてしまった。そしてやがて戦争も激しくなり安中の伯母の家に疎開したりして、箪笥の着物を一枚ずつ売っては食料や医療費に変えていた。
 戦後二度目の父の全集が創元社から出たときには、祖母は、
 『朔太郎は死んでから、親孝行してくれた』といって喜び『生きているときは、原稿料はみんな飲んでしまって、役には立たなかったけど結局あんなに飲んでも、家のお金を減らしも、増やしもしなかったよ。』といった。」
(Ⅰ詩人論/朔太郎の内的世界つづく…)

2011年10月05日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-67-

 朔太郎の自我の深奥は、それら皮相な用語のなかにひそんでいるのではなく、朔太郎の自我形成の事実のなかに、そして朔太郎がまぎれもなく生きた、あの生きざまのなかに言葉としてではなく、どうしようもない朔太郎の寂しさと孤独として定着されているはずのものなのである。
 いま、筑摩書房版の『萩原朔太郎全集』が刊行されることもあって朔太郎への関心が非常にたかまっているという。朔太郎がその時代、そして個人によってどのように読まれるのかは、朔太郎の意図とは第一義的には関係がないことだと言えるだろう。しかし、朔太郎の表現が、その構造として所有する現象への接近という形態は、その表現に接する読者を確実に引き裂くのである。
 読者の、詩人としての生き方を、日常の時間を、そして生涯かけてひきずっていく表現への関与を根本的に引き裂かずにはいないのである。
 しかし、私達は朔太郎の表現を常に、私達の内部でいきいきと、柔軟にとらえかえしていかなければならない。人間的表現の一つの成果として保持していかなければならない。
 全集が完結するたびに巨きな権威をもつかのように朔太郎をとらえかえしてはいけないのだと思う。朔太郎自身の同一性の問題を私は論じている訳だが、朔太郎の表現のあとを追って朔太郎の存在そのものを私達のレッテル化させてはいけないのだ。
 私達が求める表現の可能性の一つが、豊かな人間的解釈を多様に提供することによって、私達自身の状況へと関わりあうことだと考えるのだけれども、朔太郎もまずこのように私達の目前に存在するのだ。
 そして、それこそが内的・外的な抑圧と関与に対峙して表現を生きのびさせる方法であり、現象学的と私が呼びならわすところの内的な世界の意識的表出の姿なのである。
(Ⅰ詩人論/朔太郎の内的世界つづく…)

2011年09月13日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-66-

 何度も述べるように、内的な自我、“精神的自我”が自覚的に形成されるのは、対人関係の存在様式のなかにおいてであり、他者との実践的な関わりあい、開示性の場面ではじめて成立するものである。
 サルトルが『存在と無』のなかで提示した人間関係論のモデルとテーゼは、自我が他者のまなざしのなかでさらされることによって、すなわち「他者にとっての一つの対象的存在になっており、自由な超越を奪われている。」ということによって対他的に生育することの実証であったことを想い出す。しかし、サルトル的自我の帰結が、「意識個体の相互間の関係の本質は、共同存在ではなくて、相剋なのである。」と表わされ、人間関係は、所詮“サディコ・マゾヒズム”の埒を超えることはできないと思考されるとき、そのようなサルトル的自我とはまったく異なった自我の存在を想定しなければならないときがある。
 このような場合の一つの型が、Labelingとしての自我同一性の問題のなかに含まれているのである。この場合においても、対他的な人間関係のなかで、自分の役割的自我を看視する“まなざし”としての他者、そして超自我といったものの存在は確かなものなのであるが、内的意識の関係性は、まるで糸のきれた凧のようにすべての相互間の関係性を脱落させたまま、そしてあらゆる循環運動から離脱することによって、ある一つの“Label”のなかに自我を埋没させていくのである。
 「病人としてしか生きていけない人間」、そして朔太郎のように「<詩人>としてしか生きていけない人間」が確かに存在するのである。
 朔太郎の自我形成の背後に、対他的な超自我としての、そして“まなざし”としての父の存在があったことは事実であるとしても、それだけで朔太郎の精神的自我を解釈することは不可能なことなのである。
 朔太郎における“サデイコ・マゾヒズム”も、“自己愛”もそれ自体として完結した意味づけを可能とするものではなく、むしろ、前述したように、幾重にも内的な現象の過程を経て、非常に屈折した形としてはじめて内在化されるものなのである。
 その意味からしても、私達は朔太郎の述べる実に多彩な精神病理学的な異常性のあげつらいに目をうばわれてはならないのだ。
(Ⅰ詩人論/朔太郎の内的世界つづく…)

2011年08月31日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-65-

 父の要請と、その頃の朔太郎の心情を、朔太郎自身は次のように語っている。

 「『何でもいいから目的を立てろ』父はかう言つて絶えず私を責めました。実際私にはその目的が見つからなかつたのです。その後他から強ひられていやいやながら高等学校に入りましたが、私は全く学課を軽辱しました。そして今に至るまで私は何の理想も目的も見出すことはできません。しかも目的なしに生きていることがどんなに辛いことだということはあなたにも御推察になることと思います。
 朝から晩まで私を悩み苦しめるものはただ一つの思想です。『何のために?』『何の目的で?お前は生きてゐるのだ?』これです。私は何度も自殺を思ひました。それほどこの問題は執拗に私を苦しめて居るのです。」
(「高橋元吉宛の手紙」)
 青猫を書いた頃は、私の生活のいちばん陰鬱な梅雨時だった。その頃、私は全く『生きる』ということの欲情をなくしてしまった。といって、自殺を決行するほどの烈しい意志的なパッションもなかった。つまり無意とアンニュイの生活であり、長椅子の上に身を投げ出して、梅雨の降り続く外の景色を、窓の硝子越しに眺めながら、どうにも仕方のない苦悩と倦怠とを、心にひとり忍び泣いているような状態だった。
 その頃私は高等学校を中途で止め、田舎の父の家にごろごろしていた。三十五・六歳にもなる男が、何もしないで父の家に寄食して居るということだけでも残ましく憂鬱なことである。食事の度毎に、毎日暗い顔をしている両親と見合っていた。……父は私を見る毎に世にも果敢なく情けない顔をしていた。私は私で、その父の顔を見るのが苦しく、自責の悲しみに耐えられなかった。こうした生活の中で、私は人生の意義を考へ詰めて居た。人は何のために生きるのか。幸福とは何ぞ、真理とは何ぞ、道徳とは何ぞ、死とは何ぞ。生とは何ぞや。
 私は無限の懐疑の中を彷徨していた。どこにも頼るものがなく、目的するものがなく、生きるということそれ自身が無意味であった。」
(青猫を書いた頃)

 ここには、朔太郎の自我が発達してきた位置が端的に表現されているといえるだろう。
 朔太郎はやはり、<詩人>になるしかなかった人間なのである。
(Ⅰ詩人論/朔太郎の内的世界つづく…)

新しい記事を読む 過去の記事を読む

ページのトップへ