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墨岡通信

成城墨岡クリニック分院によるブログ形式の情報ページです。

2018年10月09日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-164

しかし、F・Basagliaの実践はついには挫折的に終末を余儀なくされたのであり、彼は綿密な現状分析をふまえて、現在ではこのような政治的行為は現実の力となるまでには熟していないのであって、現在自分達に出来ることは常に疎外の問題に対してするどい認識を持ち続けることしかないと悲観的に結論しているのである。

Maxwell Jonesの実践と理論については後で詳しく述べることにするが、日本に於いても、ここ三年程の間に、精神医療を純粋に政治的な問題として把握する運動は次々と、さまざまな壁に突きあたった。壁に突きあたるたびに、<精神病者>あるいは<分裂病者>をあらゆる課題の原点に据えなければならなかった訳だが、その度に確実に問題は深く<病む人間>の問題の側に足を踏み入れてきたのであった。精神医療を政治的運動としてとらえる考え方も、現在ではさらに方法論を拡大していかねばならなくなっていることは事実である。まさに、「精神分裂病とは何か」という問題をそのための中核に置かなくては、一歩も政治的な運動を展開できないのである。しかし、このことはこうした運動が激しく模索してきた方法の豊かな果実の一つであると私は考えている。

(W私的表現考/世界の病むこと つづく…)

2018年09月11日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の平地を透視するものへ-163

例えば、イタリアの精神科医Franco Basaglia は彼のGorziaに於ける病院体験から、その悲劇的現実を目の前にして精神病院と、その病院の存在を許している社会経済的諸問題、そして精神医学そのものに対する批判を展開していった訳だが、彼は「精神病とは社会から人間的諸権利を剥奪されるところに産まれる病である。」と規定し、その故に社会的<状況>を変化させない限り何者も精神病を理解することは出来ないと認識した。そして、つねに患者に対して政治的な認識を高める努力をすることが最も必要であると考えるようになる。F・Basagliaは次のように述べる。

「暴力とは、力を持たないものに対してナイフを持っているという特権そのもののことである。」

「現在では精神科医は疎外された者の目を社会からそむけさせるための安全弁である。」

「従って精神科治療とは、暴力でのものの管理でもなく、疎外されてある者をだまらせるための方法でもない。」

「治療とは政治的な行為である。」(“Therapy is a political act.”)

このような立場から、F・Basagliaは単純な精神病院改革論者を批判し、さらには方法的に人間学的な改革論者をも批判したのであった。例えば、イギリスに於ける精神病院改革の旗手であったMaxwell Jonesを批判し後者に対しては、「愛では不充分である。」(Love is not enough“)という一語をもって批判にかえたのであった。

(W私的表現考/世界の病むこと つづく…)

2018年08月24日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の平地を透視するものへ-162

現在、いくつかの精神病院のなかで、政治的運動ではなく、人間学的な運動として<世界の病むこと>を把握しようとする試みは、多くの場所でさまざまな困難につきあたっている。精神医学、精神病院のかかえ持つ過去の巨大な蓄積の前に私達の力は、まだ微力である。しかし、私達は、一歩一歩自分自身の生き方に正直に(非権力的に!)行為していくしかないのである。

一九七五年の日本精神神経学会に出席した反精神医学の代表的論者であるD・クーパーは、その演題「精神分裂症とは何か」のなかで端的に次のように語っていた。

「分裂症的な端緒場面の意味を理解するのに必要なのは、何か新しい種類の方法ではなく、新しいこころなのです。」

私はいま、実に簡単に政治的運動ではなく、人間学的な運動を、と述べたのであるけれども、現在の精神医療をめぐる激しい流れのなかでこの二つの過程はそのなかに個々人の厳しい苦悩を含みながらいまもなおすさまじく進行中の出来事を意味するのである。

反精神医学を、現象学的、人間学的精神医学の一里塚と見なすのか、それともラディカル・サイコロジーの出発点として把握するのかということをめぐっても私達の評価は不幸にも一致し得ないのである。

(W私的表現考/世界の病むこと つづく…)


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