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2022年01月19日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-192

このように論理を空転させながら、私達は否応もなく現実の状況に生き、状況と深く深くかかわらなくてはならなかった。現実が論理を超えてしまった地点で、私達は私達の生存を遂行していかなければならない。そのとき、状況はあらゆる人間の個人的な存在(=主観的境界)と鋭く対立しはじめたのである。

例えば我が国において、古くから政治と文学論争の渦中で明らかにされてきた政治的な立場は、一定の傾斜を持ちながら、迷える一匹のためには決して後の九十九匹を犠牲にすることはないという分離の思想として、明確ではあるが皮相な論理によって先どりされ、個人と組織の問題という大課題を経て、遂には転向者をめぐる論争として成熟したのである。折からのスターリニズム批判の嵐の中で、あまりに多くの雑音をくわえすぎたきらいはあるにしても、それは政治を人間存在の根本問題と対立するものとして定義するはっきりとした立場の前床となるものであった。吉本隆明、武井昭夫などはその前夜の唄とも言えるものであった。

吉本隆明はまず「戦後思想の荒廃」の叙述として、政治を幻想過程、経済活動を現実過程と規定しようとした。この時期の吉本隆明は上部構造と下部構造とを同質レベルでとらえようとする二元論の構図を持っていたことは確かであった。しかし、吉本隆明がその後『言語にとって美とはなにか』、『共同幻想論』、『心的現象論序説』へと突き進んでいくとき、幻想問題は次々とその外延を拡張させていく。幻想の対概念も“現実”ではなく、“生活”へと移っていく。

 (Ⅴ状況のなかの精神医学/何故、今、レインなのか? つづく…)

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