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2017年07月01日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-148

精神医学とか、精神分析などという学問の桎梏などかなぐり捨てて、私達は人間の自我の最も奥深いところにまで私達自身を追い込んでいかねばならない。“ともに生きる”“ともに状況を耐える”その場所が共通の場として要求されなければならない。そして、その場所は常に、私達の日常の延長になってはならないのだ。

Fさんにむかって、“孤独と親密との葛藤”(エリクソン)などと解釈することも、“<発病>は成長をするときにおこる”(ボス)などと考えることも私にはできなかった。

「分析者は、分析すると同時に教育するという、お互いにあい入れない二つの困難な機能をもたなければならない。」と語ったフロイトの言葉は遠い遠い古典である。

フロイトが神経症の患者にむかって、“人間的苦悩”について語るとき、そこにはすっぽりと状況の論理が欠落していたのである。

いま、自我について語るとき、状況論のない自我論は意味がないと私は断言できる。そして、この一点にさえ、旧来の精神医学は限界を露呈し、単純な認識論と存在論は破産せざるを得ないのである。

昭49年4月。Fさんは自分から職場をやめる決心を語る。あと一年なんとか生活して、その間に具体的な生活設計をたてるといいだした。Fさんに必要だったのは、単に職場を変えるということではなく、常にあたえられたものとしてあった職場を、自分のものとして意識することであった。従って、私にとっても、Fさんが実際に会社をやめるかどうかが問題だったのではない。

(Ⅳ私的表現考/表現の現象学 つづく・・・)

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