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2018年05月29日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-159

 学問としての精神医学が、総じて膨大な文献学に終始し、精神病院のほとんどが、その経営と組合対策を何よりも優先させてきた日本の精神医療の現実のなかで、あらゆる意味で幾重にも疎外され続けてきた、分裂症を病む人間存在のあり様はあまりにも非人間的である。「あの人たち」は、差別と呼ぶにはあまりにも完璧な隔離のなかで、まさに意味のない言語を語り続けるか、おそろしい沈黙を守るかのどちらかとなって、最小限の生命をほそぼそと耐えなければならないのである。

 かつて、症候としての精神医学的記述は精神分裂を病む人間の思考障害として、思路弛緩だの、思路滅裂だのと規範づけてきた。だが現在では簡単にこのような名辞によって示すことはできないということが要請されているのだ。ある人間のおかれた状況的、肉体的・精神的な歪みの総体として人間の存在をとらえなくてはならないとすれば、「あの人たち」の言語は、「あの人たち」の追い込まれた生活空間というフィルターをとおして発せられたものであると原理的に理解しなくてはならない。

 さらに、もう一つの問題は、発せられたある言語表現は、感情表現としても意味伝達性としても、それを解釈する他者の存在の状況的裏付けのもとに厳しく限定されていることである。言語表現のもつ本質的な階級性が問題なのであって、この事実を認識しない限り、私達は言語表現をとおして、人間存在の肉体的現象を分析するという方法論を失ってしまうことになるのである。逆に言えば、私達はこのい厳しい言語の階級性を認めたうえで、はじめて真の人間的接触と解釈とを表現のなかに見出すことができるのである。

  (Ⅳ私的表現考/世界の病むこと つづく…)

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