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墨岡通信

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2016年03月13日

カテゴリー:院長より

見果てぬ夢の地平を透視するものへ-132

ii

<私が書く>という現象は一体どんな意味を持ち得るのか。<あなたが詩を書く>のは何故なのか。

背後からせきたてる陰の声、状況のなかでついに未完のまま拡散していってしまう厖大な意志に支えられて、一個人の現象が表現として定着していくのだろうか。

それにしても、人間の表現行為について、また人間の精神現象について、何故こんなにもおびただしい書物が書かれ、多くの体系が企図されようとするのだろうか。

そこに病める人間がいるから、などという解答を私は絶対に認めることはできない。現在の表現行為論も、精神現象学も決定的に正常者の側に収奪されており、さらにはより完璧な比喩のようにいずれは巨大な権力の懐におさまってしまう性質のものである限り、私はそれらの解釈を私のものとして肯定することは出来ないのである。

何よりも、なお一層人間的な生き方を中心課題としながら、学問とは一体何かということをもっともっと単純な地平に持ち込んで問いなおすべきなのだ。そして、そのためにまず私達が日常のなかで行っている諸行為の意味性をたずねあてていかなければならない。職業とは何か。生活とは何か。怒り、悲しみ、快楽、絶望、不安、こうした心理的機制さえも私達は再び問いなおす必要にせまられている。

「男達は家にいる女達の為に働いている。自分の為の働いてくれる者を持っているとは何と凄いことだろうと思う。その何でもない世界、それが私達は欲しいのです。
たとえ夕方には病院に戻らねばならないとしても、一ときでも人間らしい生活を味わってみたいと思います」(小林美代子『髪の花』)
(Ⅳ私的表現考/表現の現象学 つづく・・・)

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